2008年11月 7日 (金)

アルテミスカルテットのピアノ5重奏曲

 今思えば、ちょっと大げさな宣言だったのではなかろうかとちょっと、恐くなってきたけども、早速、オススメのCDを挙げます。

アルテミスカルテット
pf/レイフ・オヴェ・アンスネス
シューマン ピアノ5重奏
ブラームス ピアノ5重奏


このCDは、イギリスの音楽雑誌グラモフォンのアワード2008でも室内楽部門でトップを勝ち取ったもの。受賞理由の一部に「巧妙さやわざとらしさがなく、局の内面を明らかにし、喜びに満ちた演奏」というのがあった(拙訳。間違ってたらごめんなさい)。

CDを聴くと確かにその評は当たっていると思う。でも、自分はこれを見て買ったわけではない。新宿のビルの上階にあるCDショップで試聴して、そのままレジに駆け込んだ。シューマンが好きだからちゃんと聴きたくなったというのもあるけども。

 音が耳に入ってきて、脳をごちゃごちゃにするような感覚。正直言うと弦楽やピアノの音がとても綺麗だとは思わなかった。例えば昔の録音を聴くと、全てが一つに聴こえるような演奏を求め、目指して音楽が作られている。このCDは違う。それぞれが殺陣のように、切り合い、ぶつかりながらも、ひとつの音楽を作っていく。こういった音楽は、クレーメルやアルゲリッチ、マイスキー、バシュメットが作った一つの境地に近いものがあるのではないだろうか。モーツァルトやハイドンの室内楽を当時の宮殿で、演奏したら誰もが食事の手を止め、聴き入ってしまう。今だからこそできる演奏なのだ。演奏から伝わってくる力強さや躍動感は、従来の大人しいと思われるクラシックのイメージを変える新しい一面を作り上げている。

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2008年11月 2日 (日)

新たな野望

 これまで70ほどの音楽についての文章を書いてきた。どれもしっくりこなかった。自分が、そのとき、思ったこと、感じたことを伝えようと思っていたけれど、何かが違う。でも、それが分からない。そのジレンマに陥っていて、更新もあまりしてこなかった。

 今日、人に言われたこと。渦の中心になれ。これだけでは分からないだろうけど。結局、ここで発信していることは、読んでくれている人に伝えたいことがあるからだけど、それだけではダメなんだろう。自分が提供する話題で皆に熱中してもらいたい。そこまで踏み込んで、初めて自分のジレンマが解消されるのだと気がついた。渦の中心というのは、そういうことで、周りを巻き込んでいけということなのだ。

 では、これまで何がいけなかったのか。一言でいえば、分析しすぎていた。自分が楽しかった。なぜ、楽しかったのか。どうして、どうして?それを追求するあまり、人に熱中してもらおうという視点を置き去りにしていたのだろう。

 クラシック音楽を楽しむには、分析よりもまずは聴いてもらいたい。一ついえることは、ここで紹介してきたCDや本はどれも僕は熱中して聴いてきた。皆にも聴いてもらいたい。でも、どうやって聴いてもらいたいかまで書いてきた。それがいけなかった。言ってしまえばなんだけど、聴けば分かる。とりあえず、この音楽を聴いてくれ。僕には響いてきた。君は?

 渦を作り出す。まずは、これを肝に新しい「日がな一日」を作っていこうと思う。分析も必要だと思うけども、それ以上に自分が感じた感動を伝え、共有してもらえたら、とても幸せです。

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2008年10月22日 (水)

ある日のモーツァルト

 今日まで伝わっている作曲家の人生は、それぞれにドラマがある。普通の生活を送った人にだってドラマがあるんだから、それは普通だろとも思うけども、それでも映画なり、エピソードを読んだりすると面白い。

 なんで、そんなことを書いたかといえば、今、モーツァルトのレクイエム(リヒター指揮)を聴いているからで。ライナーノーツには、「1791年7月のある日のこと、“魔笛”を作曲中のモーツァルトは、“灰色の服を着て異様な風采”をした未知の男の来訪をうけた」と書いてある。7月のどんな日かは書いてない。晴れてたか、雨だったか。それ以前に昼間なのか、夜なのか。しかし、この一文を読むだけで空想は勝手に広がっていく。映画アマデウスの影響もあるだろうけども。以下、空想。

 ビリヤードが好きだったモーツァルトはビリヤード台の上で作曲を行っていた。ウィーンの安ワインを飲みつつだったが、味を楽しむよりは、酔いに任せて筆を走らせるためにがぶ飲みしていた。
 モーツァルトは焦っていた。自分の曲がなぜ、お偉方に理解されないのか。こんな名作ぞろいなのに。こうなりゃ、大衆にまず理解させて、暴動でも起こして、立場を逆転させてやろうか。つうか、ちょっと飲みすぎたか。気持ち悪く…。目もくらくらしてきた。ロウソクの火が揺れてやがる。止まれよ。つうか、誰かがドア叩いてる。借金取りか。やばいな。まだ、金の用意が出来てない。黙っていれば、そのうち帰るだろ…。

30分後。まだドアを叩く音が部屋に響く。
 まだ、帰らないのかよ。いい加減にしてくれよ。普通、諦めるだろ。しょうがない。開けてやるか。酒臭いけど、お前のせいだからな。

 なぜ、男は帰らなかったか。手紙を渡さずに帰れば、主人に怒られるし、何より報酬が手に入らない。この男だって金に困っていた。この金を受け取らなければ、明日にも怖いお兄さんたちが部屋に押し寄せてくることが分かっていた。それにモーツァルトが部屋にいることも、事前の調査で知っていた。自分の仕事は手紙を渡すこと。それだけで、とりあえずの生活はできる。必死だった。

 そんなことは知らずモーツァルトはドアを開ける。安ワインですでに頭はくらくらし、焦点は定まらない。そんな状況で見えてくるのは、つぎはぎだらけで、薄汚れて、シミがまだら模様を作る灰カムリのような男。ようは、薄汚かっただけだが、部屋の暗さとで、”灰色を着て異様な風采”な男に見えた。しかし、男の方にしても、安ワインで飲んだくれ、目が血走っているようなモーツァルトだって同じようなものだったに違いない。お互いに似たような感想をもったが、それは口に出さない。モーツァルトの頭の中では夜の女王のアリアが響き渡り、割れるような痛さになっていた。男は、酒臭さにたまらず、さっさと仕事を仕上げようと手紙を無理やり、渡して部屋の前から走っていった。建物を出ると吐いた。
 一方、モーツァルトは手紙を読んだ。レクイエムの依頼だった。依頼主は分からない。しかし、男の異様さから重要なものと思い込んだ。

男は依頼主から金の入った袋を受け取り、数枚をポケットに入れ、借金取りの家に行き、渡した。まだ借金は残っているが、少なくとも家を立ち退く必要はなくなった。ポケットに入れておいた金で久々の酒を楽しんだ。

 モーツァルトは、手紙を何度も読み返した。自分にレクイエムを作曲しろだと。このクソ忙しい時に。つうか、あいつはなんなんだ。気持ち悪い服装で。こっちまで気持ち悪くなってきた。ワインをまたがぶ飲みする。だんだん腹が立ってきた。とりあえずは魔笛にとりかかる。気がつくと、ザラストロと冬の女王の立場が逆転していた。冬の女王のアリアで頭がいたくなった腹いせだった。

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2008年9月18日 (木)

結局、マーラーって

 昨日、N響のマーラーの演奏について書いた。日曜に聴いてから、ずっと考えていたけども、まだ、考えに変化は起きてこない。

 結局、言いたい事は、あのときの演奏は、まとまりがなく終わってしまったということ。
どうして、そういうことになってしまったのか、がまだ明確にはなっていない。

 マーラーというと僕には、まず、雄大と虚弱の音楽というイメージがある。
耽溺といわれるバーンスタインの演奏、歌わせるショルティの演奏、深淵のように聴かせるバルビローリの演奏といろいろな種類がある。しかし、その根底にあるのは、さまざまな音で作り上げられる雄大な音楽だ。ブルックナーのように、教会的な、オルガンを聴かせるような重厚さとは違い、これでもかと攻撃的に音を積み上げていく。しかし、その中に弱さを感じさせるところがあり、その弱さは死んでしまうんじゃないかと思わせるくらいに、あまりにも弱弱しく、なかなかほうっておくことができないところに惹かれてしまう。

 今回のマーラーの5番なんぞはその良い例ではないだろうか。トランペットのあのメロディ。ちょっと音をいじれば、メンデルスゾーンの結婚行進曲になるけども、それを早々行進曲として演奏させる。強い自我。他を笑い飛ばし、俺を見よと前面に出てくる。しかし、その自信が強すぎるゆえに、弱いところがでてくると、たとえば2楽章のチェロのメロディが1楽章にも聴こえてくるが、とたんに不安を作り出す。強さはこけおどしなのか。このギャップこそがマーラーなのだと思っている。外圧と戦い、自分の死について恐れ続けた作曲家の顔がそこに見えてくるのだ。だからこそ、マーラーの曲は、耽溺でも、歌わせるでも、深淵でもさまざまな作り方ができ、聴く側はその違いまでも楽しむことができるのではないだろうか。

 結局、僕が聴いたN響の音楽はそのどれもが、中途半端になってしまっていたのかもしれない。もしくは、新しいアプローチをしかけていたのかもしれない。

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2008年9月17日 (水)

N響の定期に行ってきた

 去る9月14日。三連休の半ば。僕は、NHkホールにいた。
振り返れば、全然、プロオケの音を聴いていないことに
気がつき、そろそろ行かなきゃと思っていたときのこと。
N響のホームページを見たら、マーラー5番をやると記載
されていたため、当日券狙いで行ってきた。

 いつごろから始めたのかは、知らないけども、演奏が
始まる前に、団員による室内楽演奏を楽しめる。
今回は、ヴァイオリンとオーボエとハープ。
上品な楽器が勢ぞろい。ベルリオーズのオラトリオ
「キリストの幼時」からトリオとドップラーの「アンダンテと
ロンド」。ヴァイオリンのあでやか音とオーボエのつややかな
音。それらの周りを時に持ち上げ、時に包み込むような
ハープ。皆がしっとりとひとつの音楽を作り上げていた。
司会の方(!)がいうには、なんでも、ドップラーの曲は、
本来はフルート2本とハープで演奏するものらしい。
が、二人は編曲することなく、フルートの楽譜でやっているとのこと。
それにしても、オーボエからヴァイオリンへの音の移り方なんて、
見事なもので、気がつけば変わっていた。
音質ではなく、目指しているものが同じだから(?)と、
自分の耳が悪いせいだなんて思いたくない。

また、この日は、先日亡くなったホルスト・シュタインへの
追悼の意味を込めて、演奏前に弦楽で、バッハの組曲から
「アリア」が演奏された。
バッハの音楽は、低音でがっちりと固めてというイメージが
あるけども、低弦のピッツと上から降りてくるヴァイオリンのメロディ
からは、それだけではなく、何か超越しているようにも思えてくる。
それが何なのかは、まだ分からない。

 で、やっとプログラムが始まる。
今回は二曲プロ。前半はデニソフ/絵画、後半がお待ちかね
マーラー。

 前半の曲は、僕にはもう、まるでさっぱり。
1970年に作られたらしいけども、いわゆるこれがセリーって
やつなのか。解説によれば…解説が良く分からない。
なんでも作曲家デニソフはシベリア西部のトムスク生まれ。
1920年にうまれて96年になくなった、時代的に波乱万丈な
人生だったのだろうか。
ショスタコに楽譜を送って、助言を受けて、作曲家を志す。
1960年代に12音技法が注目されると、ウェーンベルンや
ベルクに教わった人に教わる…。
とりあえず、いろいろと勉強された人らしい。
結局、平均律をぶっこわしてしまった12音技法で、作曲すると
そこには調性がなくなるから、メロディがうまれるわけもなく、
ザワザワ(42声部にまで分けてる)して、金管や打楽器が
ドカンと打ち消して、また残り火のようにザワザワして…終わり。

そもそも12音技法ってなんだっけ?
ここに書いたのはあまりに誤解・無知が混ざっている。

で、マーラーです。
トランペットの出だしがやってしまっていたけども、
それだけではなく、他の楽器もやってしまっていた。
それぞれが楽譜にかじり過ぎじゃなかろうか。
前日もやってたんじゃなかったっけと思ったけども、
実際にかじりついてしまい、皆がそれぞれの
マーラーを思う存分だしていた。
こんな時は指揮者は人間メトロノームと化す。
マーラーが聴けるからと、
前日からバーンスタイン、ショルティ、バルビローリ、
シノーポリと持っているCD全てを聴いてから
臨んでしまったのが間違いだった。
ちょっと残念。

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2008年8月17日 (日)

グールドを聴いてしまった

 長らくご無沙汰をいたしました。病気とかしたわけでは、
ありません。ただのサボりです。
 久々の涼しい気候で、とろけだした脳みそも、やっと元の
形に戻ってきた気がします。といっても、中身がなければ、
なんら意味がないのですが。

 昨年は、パーヴォ・ヤルヴィとドイツ・カンマーフィルの
演奏に燃え上がった夏でした。今年はというと…なんも
ないです。演奏会に行きたいなと思いつつ、家から出る
こともなかなか億劫になり、CDを聴き漁る夏になってます。
 そんな中で、最近、気になるのが、やっぱり上に挙げた
コンビ。一年以上、はまっているんですねぇ。驚き。
彼らはピリオド奏法のオケとして、名を挙げてきているんですが、
ピリオド奏法ってけっこう、昔からあったのではないかと
教えてくれたCDを発見。発見といっても、めちゃくちゃ有名
なので、イマサラかよって思う人がほとんどだと思いますが、
僕にとっては、新鮮でした。

 グレン・グールド バッハ「ゴルトベルク変奏曲」(55年録音盤)

バッハは、まだまだ早いだろう、相手には去れないだろう
と思い、全然と言ってよいくらい手を出さなかった。
が、とうとう、聴いちゃいました。買うときに、店員さんと
しばらく話し込んでしまったけども、その時に得られた情報に
よると、グールドはなんでも、ピアノをチェンバロのように
弾くという。チェンバロのようにとは、全ての音が同じ響きに
なる。ピアノは、レガート奏法(なめらかな曲の感じ)や、
大きい音や小さい音を出すのが容易に出来る。
しかし、チェンバロは、それが難しいのです。構造的な問題
らしいですが。しかし、グールドはチェンバロ的な奏法を
わざと、意図的にピアノに用いることで、これまでとは違う
新しい(奏法からするとかなり古い…?)響きを作り出した
のです。まぁ、細かい話は、いろんな方が、それこそたくさん
本にして書いているのでそちらを参考にしてください。
 それにしても、この手法ってピリオド楽器で演奏していた
奏法をモダン楽器に取り込んだ話に似ているなぁと
思ったのでした。
 まさか、グールドの影響ではないだろうけども、
何か共通の下地はあったと思える。
その下地とは何か。それはまたの機会で。

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2008年5月23日 (金)

昔+ちょっと昔は今

とうとう発売されました。パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィルの
ベートーヴェン・チクルス第3弾交響曲第5番と1番。
492

早速、聴いてみたけども、ますます切れてます。
ただ、あっさりとしているだけではなく、重厚かつあっさり。
ピリオド奏法とモダン奏法の融合と書かれるけども、
それだけなんだろか。
ピリオド奏法が下火になりつつ、今、新しい奏法を
見つけてそれを押し出したい気持ちも分かるけども。
結局、ピリオド奏法を始めたのは学者たちであって、
学術研究という点からすれば、あって当然のこと。
それまでの奏法と違うのは、それこそ時代の変遷であって、
誰にも非はない。しかも、研究の成果であるとすれば、
プロである指揮者はチラリとだけでも目を向けるのが、
自然ではなかろうか。それを取り入れて演奏に向かう
指揮者が増えてきたということなのだろう。
それが、新しい流派になるのかは知らない。
そもそも流派があるのかだって分からない。
楽譜という素材を使って、自分の持っているものを、
音楽にして、聴衆を魅了する。
そういったスポーツ的な側面をこの指揮者は持っている
気がする。

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2008年5月10日 (土)

カラヤンの生誕100年

 久々の更新。最近、芸能人とかのブログを見ていることが
多いのだけど、良く毎日更新できなるなぁと感心している
人間です。少しは見習わなくてはいけません…。
 今年は帝王カラヤンの生誕100年の年。といっても、
カラヤンだけではなく、ナニワの大将朝比奈隆の生誕100年
でもあります。別のジャンルに目を向ければ、名優長谷川一夫。
小説では永井荷風の「あめりか物語」が刊行された年。
なんでこんなことを知っているかといえば、2000年に新潮文庫
で組まれたシリーズ、1901年から2000年まで1冊ずつその年に
刊行された本を取り上げた「新潮文庫20世紀の100冊」で、
1908年は永井荷風「あめりか物語」が割り当てられていたから。
で、僕はそのとき、その本を買った。もう、背は日に焼けて
薄くなり、プレミア(がつくかどうかわかりませんが)的な価値は
ほぼゼロに等しくなっている。まぁ、どうでもよいのだけど。
 1908年に生まれたカラヤンは、それこそ20世紀を代表する
指揮者でした。全てを手に入れたけど、それが果たして幸福を
もたらしたどうか。ほとんど小説になるような生涯のように思える。
ヨーロッパ中のオーケストラを手中に収め、自家用ジェットで、
世界中を飛び回る。そこに至るまでに幾多の苦労、陰謀。
苦労して手に入れたオーケストラとの決別。
果たして最後に彼が見たものは?! と入れれば、立派な
ドラマが出来上がる。
 僕個人的なことを言えば、カラヤンの作る音楽は、まだ良く
分からない。分かろうとしていないところもあるけども。
でも、彼がいなければ、ここまでCDで音楽を楽しめることも、
なかったのではないだろかと、ふと思うときもある。
CDだか何かを作るときに、時間を自分のベートーヴェンの第九が
入るように設定したのは有名な話だし、自分を全面に押し出し、
クラシック音楽のより一層の大衆化を果たしたといわれている。

 さきほど、カラヤンが作る音楽は、分からないと書いたけど、
その少ない範囲でも書いてみたくなった。
カラヤンの演奏は、語弊があることは重々承知だけど、
どこにも力が入っていない。どこまでも自然である。
楽譜に忠実な上に、ワンポイントの演出を加える。
それがよく言われるレガート奏法だと僕は思う。
心地よく聴こえ、音のひとつひとつが、耳に馴染んでくる。
まさにBGM。飽きることなく聴けるのが特徴なのではないだろうか。
ちなみに、僕は、実演を聴いたことがないからCDで判断している。
フルトヴェングラーやトスカニーニといった、それこそ個性の
塊のような演奏を聴いた後で、カラヤンを聴くと、物足りない。
という話になってしまうのだろう。しかし、泥臭さがなく、優雅な
音楽を作り上げるというのは、やはり一種の才能が必要だ。
カラヤンが生きた時代、二つの戦争を過ごし、人々は生活の
豊かさを求めてきていた。日本でいえば、高度成長なんぞが
それだと思う。そこでは泥臭さは排除され、綺麗なものが
望まれていた。その点、カラヤンは求められたか、察知したか
は分からないけども、うまくマッチしていたのではないだろうか。
しかし、カラヤンの死とともに、21世紀に入り、エコが叫ばれ、
シンプルさがより求められている時代に入った。
この声をくみ上げ、自分の音楽に取り入れてくる指揮者が、
次世代のカラヤンになってくるのではないか。
その指揮者が死ぬときは是非、知りたい。死ぬとき、何を
見たか、と。

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2008年4月21日 (月)

やっと見つかった

 最近、探している本がやっと見つかった。とは、いっても
別段、本屋で探していたわけではない。自分の部屋で、だ。
 わざわざ言うことではないし、こんなことを書けば、大概、
想像できるだろうけど、僕の部屋は汚い。というか、僕の
名誉のためにいうと物があふれていて、どうしようも片付かない。
テレビとかで収納の名人が来て、リビングなどをとても
綺麗にしているのを見るけど、僕の部屋はたぶん、お手上げ
だろうな、と一人でほくそえむのも隠れた楽しみのひとつ。
まぁ、そんなことはかんけいないんだけども。
 そんな部屋でここ、一ヶ月ほど探していたのが
 ロマン・ロラン著「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)
小さいからすぐにいなくなってしまう。
この前、モーツァルトのハフナーについて、ちらりと書いた
けども、考え直すきっかけとなったCDが
 クルト・ザンデルリンク指揮
シュターツカペレ・ドレスデン演奏
の、日本ライブ盤。
ドイツ音楽はこうやるんだ、という見本みたいな演奏で、
偉そうにハフナーはなぁ、上品すぎるんだよなぁと言って
いた人間が、さっさといや、いい曲ですと言ってしまった。
これについては、前回のブログを参照してください。
で、ハフナーの後に入っていたのが、ベト8。
何回か話題に取り上げているけども、僕はやっぱりこの交響曲が、
ベートーヴェンの中でもとりわけ好む。
ただ、好んでいるだけではなく、名著といわれるような本で、
賞賛されていたら嬉しいな、心強いなと思い、探していたのです。
やっと見つかりましたよ。まさか、あんなところにあるなんて…。
で、早速引用します。
「悲劇がふざけと溶け合い、勇士ヘラクレスのような力強さが
幼な児の無邪気な遊戯と軽やかな気まぐれとに溶け合っている」
どうです?ちょいと意味が分かりにくいやもしれませんが、
よく読んでみると、この交響曲には5つのものが表現されている
と書いてあります。
悲劇、ふざけ、力強さ、無邪気な遊戯、軽やかな気まぐれ
ほとんど音楽に求められるものほとんどだと思いませんか?
ふざけは喜劇に通じるものがあるし、
力強さは音や構造に圧倒される
無邪気な遊戯、軽やかな気まぐれは実は力強さを支える大切な
要因です。これらがなければかなり重いと思わざるを得ない。
しかもロマン・ロランはこの特徴は、ベートーヴェンに当てはまる
と指摘している。この指摘に従えば、ベートーヴェン自身を
表現した音楽が、交響曲第8番ということになります。
たとえ、ちびでも、貧乏でも、かっこ悪くても、耳が聞こえなくても、
女に振られても、
これだけのものを残せれば良いなと一瞬でも考えてしまう。
そしてこれだけの賛辞を得られれば、芸術家冥利に尽きるのではないか。
とはいえ、やっぱり背は高くて、お金持ちでかっこよいのにも
憧れてしまうけども。
最後のたとえ、の後につなげた5つの言葉は、
最近読んだ丸谷才一の随筆集「青い雨傘」(文春文庫)に引用されていた
谷川俊太郎の詩をちょいとパクッてみた。
実際はこんな書き方じゃないけども、
にやりとさせられる面白い詩です。
そのあとでハッと考えさせられてしまうところもあったりしますが。
それについては丸谷才一が解説をしてくれています。
丸谷才一の文章も含蓄があって、楽しめます。
ロマン・ロランから離れてしまったけども、
文章を通じて読む音楽というのも、乙なものですな。

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2008年4月 8日 (火)

苦手だったけど

 苦手な曲は誰にもあると思う。
 僕の場合は、モーツァルトのハフナー交響曲とラフマニノフの
交響曲第2番。ガイドブック等を開けば、どちらも名曲と記されている。
ラフマニノフはたぶん、まだしばらくは受け付けられない。
いわゆるロマンティックなメロディが盛りだくさんですぐに食傷してしまう。
押し売りをされているといった感覚にもなってしまう。
残念だけど、しょうがない。自分の器と合わないのだから。
時間がたって、器が変わるのをとりあえず待っている状態。

 さて、モーツァルトである。ハフナー交響曲。第35番。
モーツァルトの父レオポルドの友人ではったハフナー侯爵
の息子が爵位を授与されたため、そのお祝いの曲として
作られたもの。とはいってもこのとき作られた曲は、
セレナードといって、貴族の会食やピクニック、祝典で演奏される
BGMだった。ウィーンで交響曲を演奏しなくてはいけなく
なったモーツァルトが、このセレナードのメヌエットとマーチの
楽章を削って交響曲に仕立てた。
 と、曲の概要はこんな感じだけども、何が苦手か。
曲の出だしからあまりにも貴族的、高貴的すぎて小市民の
自分にはほとんど合わない。初めて聴いたときから、この
考えに捉われていた。
 しかし、よくよく聴いてみると、確かに表面的には貴族の
匂いがぷんぷんしているけども、それだけではない何かが
ある。そう思うようになってきた。例えば出だし。こんなに
見事に仕上がっている曲ってない。オクターブの跳躍を
するだけでこの曲の方向性を見せてもらってしまったように
さえ思える。あとは、この中を音階や、分散していくだけで、
作り上げている。これって、すごい。と感心感激をしてしまったのです。
その後に続く追いかけっこ。この頃、バッハの研究をしたと
僕のCDの解説には書いてあるけど、それがこれかしら。
たぶん、4楽章にそれが出てきているようにも思える。
と、スコアを持ってなく、CDを聴いて書いているだけだから、
詳しいことは書くことはできないけども、ふと聴いてみようと
思ったときにいろいろな発見があった。
この交響曲が作られたのは1783年。ちなみに41番ジュピターは1788年。
モーツァルトにとっては晩年に差し掛かった年代といえる。

新年度から音楽以外についても書いていこうと思ったのだけど、
前回、そんな宣言もしてしまったのだけど、
それはまた次回にしてみたいと思う。

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