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2008年3月

2008年3月10日 (月)

多分に深読みです。

 キリスト教が求めた禁欲とはなんだろうと考えたところで
いまだに浮かんでこない。そりゃ、キリスト教とは無縁の
生活をしてきていたから浮かんでこないだろうよ。自分の
経歴には中学、高校とミッションスクールに通っていた事実
があるから、上っ面は無縁ではないのだけど、聖書を少し
読んだくらいで、大して身についていない。先生ごめんなさい。

 なんで、こんなことを書かなくてはいけなくなったかといえば、
前回、フォーレのレクイエムに関しての考察(?)的なもの
を書いた流れによるから。余計なことを書くんじゃなかった
と思いつつ、その時考えたことを進めてみたい。

 フォーレのレクイエムには、彼の心の本質そのものを
聴き手に強く与える。これは「感覚のよろこび」という
官能性を秘めているのではないかと、CDの解説から読み取ってみた。
 キリスト教の大切な音楽レクイエムの中にそういったもの
を入れるというのはどういうことなのか。キリスト教は、
禁欲の世界というようなイメージを勝手に抱いていた自分は
そこに引っかかりを感じていた。
 しかし、そうではなさそうだ。いつだったか読んでいた本
の中で、ベルニーニの「聖女テレサの法悦」という彫刻に
は、神と一体になれるものが目でわかると書いてあった
のを思い出した。この彫刻は、聖女テレサに向かって
天使が矢で突き刺そうとしている瞬間を捉えたもの。
そのときのテレサの顔は、法悦という言葉ではなく、
恍惚といった言葉に置き換えたくなるような表情をしている。
ようは、神と一体になって昇天している表情だとその
本の著者は指摘していた。ちなみに作家の名前は澁澤龍彦。
  (と、書いたところで、タイトルを出しておこうと本棚をひっかき
  まわし、持ってる全ての澁澤本をぱらぱらとめくってみたけども、
  見つからない。果たして、澁澤だったかどうかも、はっきりと
  していなく、大変恐縮だが、何かで読んだことは確かで、
  ここをとってしまうと話の展開が出来なくなるので、あえて、
  このままにする。本のタイトル等が判明次第、掲載したい。)
フォーレのレクイエムに隠されていたものはこれと似たような
ことだと指摘できないだろうか。死者を赦す、安息を得られる
ように祈る。これがレクイエムの原点だと自分は考えている
が、赦す、安息を与えるのは神の意思。
人々がそれを望んでいるのは、別の見方をすれば、彼を赦しを
求めることで、自分たちにも平安が訪れることを期待している。
違う言い方をすれば、死者は人身御供といえなくもない。
日本にも似たような風習、「日本書紀」に書かれていると
いわれる人柱の話も一言で言えば人身御供だろう。
例えば、ヨーロッパにもそういった習慣があったとして、
それを後世に歌として伝えた。レクイエムはそれが始まり
だったとしたら…。時代が下って普通に死んだ人への歌
となっていった。
ただ、人身御供として死んでいく人が、恍惚とした顔立ち
ではなく、苦しみ抜いた表情をしていたら、残虐という印象を
人々に与え、宗教側も、考慮せざるを得ない。もちろん、
これは今の感覚で書いてあるであって、人身御供が
あった時代に残虐かどうかと考える人がいたかどうかは、
別の問題になるけども。
とりあえず、だからこそ、神と一体になれることで、恍惚とした
表情を作ることが、宗教を伝える側にとっては必定だった
とも考えることもできるだろう。また、恍惚として死んでいく人に
対し、自分たちの持つケガレを託し、赦しを得ようとする庶民たち。
恍惚として逝くのだから、少しは分けておくれよ、的な。
レクイエムは、鎮魂歌という面を保ちつつ、自分たちの救いを
それこそ必死に、得ようとする人間への賛歌でもあるのかも
しれない。
深読みしすぎました。

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2008年3月 3日 (月)

眠れぬ夜は

 最近、眠れないことが多い。布団に入って考え事をして、
テンションが高くなって、気がつけば空が白んでいる…
まではいかないけども、まぁ、それに近い時間になっている
ことが多くなってきた。
 布団から出て、テレビでも見ようかとも思うけども、ぬく
ぬくした布団からでるのは、心地よい夢から覚めるのと
同じくらい寂しいこと。そもそも電気をつけたらもっと眠れ
なくなるのでは、という予感もある。
 そんなときのために、自分は布団の下にディスクマンを
置いておく。ここから、イヤホンを引っ張り出して聴く。
曲は、テンションがもっと上がるのを抑えるため、なるべく
大人しいものを選ぶ。マーラーやチャイコフスキーなんて
もっての外。ブルックナーには驚かされて起きちゃうなんて
ことも考えられるから却下。室内楽などが望ましい。それ以上
に望ましいのが、レクイエム。
 俗にいう3大レクイエムのうち、モーツァルトとフォーレを
好んで聴く。厳かな空気の中、寝てしまっていることもあるし、
天国に運ばれていたらいいな、なんて大して期待も出来ない
ことも期待できるからだ。
 モーツァルトとフォーレのうち、特に聴くのがフォーレ。
「怒りの日」がないため、静かなうちに曲が進んでいく。
それにフォーレの音楽に満ち溢れている。といっても、
まだ、室内楽と他何曲かしか聴いたことがないため、分かって
ないと言われてしまえばそれまでだけど。
 これまで聴いてきたフォーレの音楽を言葉で説明する
ならば「音の線の重なり」だと思う。弱々しい線の上に
彩り豊かな線が重なっていき、音の流れとして耳に入って
くる。当たっているのかどうかわからないけども、アート用語の
アール・ヌーボーの音楽に感じる。本によれば1900年代
初頭にアール・ヌーボーは流行りだしたらしいから、1888年に
発表されたこのレクイエムは、もしかしたら音楽分野での
走りなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
ようは、分からない。
ただ、レクイエム以外でも、ピアノ四重奏曲でもそういった
印象を受けた。CDの解説には「禁欲的な信仰のきよらかさ」
と「感覚のよろこび」という単語がでてきた。華美な衣装を
まとった音楽とは一線を画している。しかし、それによって
フォーレの心の本質そのものを聴き手に強く与えるのでは
なかろうか。「感覚のよろこび」は官能と言い換えが出来ないだろうか。
キリスト教の神世界へ少しでも近づくことが出来るのは、
心のひだを動かす官能となるのだろうか。
だとすれば、キリスト教が求めた禁欲とはなんだろう…。

…使わない頭はこれ以上動かない。ふだんから程よく
使わないとダメですね。今日はこの辺りで消えます。
ちなみにCDの解説と書きましたが、そのCDは、
クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団の解説です。
もう一枚、好きなCDを書いておくと、
ミシェル・コルボ指揮ベルン交響楽団
クリュイタンス盤では、ソプラノが歌っているソロを
ボーイ・ソプラノが歌っています。緊張しているのか
声が震えていたりして、より一層の臨場感。
曲全体でも、抑制が効いていてクリュイタンスよりも
聴いています。
ちなみに、ミシェル・コルボは、5月のラ・フォル・ジュルネ
にくるそうです。ロッシーニのミサ曲だかなんだかを
やるようで。また、熱い日になりそうです。

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