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2008年9月18日 (木)

結局、マーラーって

 昨日、N響のマーラーの演奏について書いた。日曜に聴いてから、ずっと考えていたけども、まだ、考えに変化は起きてこない。

 結局、言いたい事は、あのときの演奏は、まとまりがなく終わってしまったということ。
どうして、そういうことになってしまったのか、がまだ明確にはなっていない。

 マーラーというと僕には、まず、雄大と虚弱の音楽というイメージがある。
耽溺といわれるバーンスタインの演奏、歌わせるショルティの演奏、深淵のように聴かせるバルビローリの演奏といろいろな種類がある。しかし、その根底にあるのは、さまざまな音で作り上げられる雄大な音楽だ。ブルックナーのように、教会的な、オルガンを聴かせるような重厚さとは違い、これでもかと攻撃的に音を積み上げていく。しかし、その中に弱さを感じさせるところがあり、その弱さは死んでしまうんじゃないかと思わせるくらいに、あまりにも弱弱しく、なかなかほうっておくことができないところに惹かれてしまう。

 今回のマーラーの5番なんぞはその良い例ではないだろうか。トランペットのあのメロディ。ちょっと音をいじれば、メンデルスゾーンの結婚行進曲になるけども、それを早々行進曲として演奏させる。強い自我。他を笑い飛ばし、俺を見よと前面に出てくる。しかし、その自信が強すぎるゆえに、弱いところがでてくると、たとえば2楽章のチェロのメロディが1楽章にも聴こえてくるが、とたんに不安を作り出す。強さはこけおどしなのか。このギャップこそがマーラーなのだと思っている。外圧と戦い、自分の死について恐れ続けた作曲家の顔がそこに見えてくるのだ。だからこそ、マーラーの曲は、耽溺でも、歌わせるでも、深淵でもさまざまな作り方ができ、聴く側はその違いまでも楽しむことができるのではないだろうか。

 結局、僕が聴いたN響の音楽はそのどれもが、中途半端になってしまっていたのかもしれない。もしくは、新しいアプローチをしかけていたのかもしれない。

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