カテゴリー「クラシック音楽雑記」の記事

2008年11月 2日 (日)

新たな野望

 これまで70ほどの音楽についての文章を書いてきた。どれもしっくりこなかった。自分が、そのとき、思ったこと、感じたことを伝えようと思っていたけれど、何かが違う。でも、それが分からない。そのジレンマに陥っていて、更新もあまりしてこなかった。

 今日、人に言われたこと。渦の中心になれ。これだけでは分からないだろうけど。結局、ここで発信していることは、読んでくれている人に伝えたいことがあるからだけど、それだけではダメなんだろう。自分が提供する話題で皆に熱中してもらいたい。そこまで踏み込んで、初めて自分のジレンマが解消されるのだと気がついた。渦の中心というのは、そういうことで、周りを巻き込んでいけということなのだ。

 では、これまで何がいけなかったのか。一言でいえば、分析しすぎていた。自分が楽しかった。なぜ、楽しかったのか。どうして、どうして?それを追求するあまり、人に熱中してもらおうという視点を置き去りにしていたのだろう。

 クラシック音楽を楽しむには、分析よりもまずは聴いてもらいたい。一ついえることは、ここで紹介してきたCDや本はどれも僕は熱中して聴いてきた。皆にも聴いてもらいたい。でも、どうやって聴いてもらいたいかまで書いてきた。それがいけなかった。言ってしまえばなんだけど、聴けば分かる。とりあえず、この音楽を聴いてくれ。僕には響いてきた。君は?

 渦を作り出す。まずは、これを肝に新しい「日がな一日」を作っていこうと思う。分析も必要だと思うけども、それ以上に自分が感じた感動を伝え、共有してもらえたら、とても幸せです。

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2008年10月22日 (水)

ある日のモーツァルト

 今日まで伝わっている作曲家の人生は、それぞれにドラマがある。普通の生活を送った人にだってドラマがあるんだから、それは普通だろとも思うけども、それでも映画なり、エピソードを読んだりすると面白い。

 なんで、そんなことを書いたかといえば、今、モーツァルトのレクイエム(リヒター指揮)を聴いているからで。ライナーノーツには、「1791年7月のある日のこと、“魔笛”を作曲中のモーツァルトは、“灰色の服を着て異様な風采”をした未知の男の来訪をうけた」と書いてある。7月のどんな日かは書いてない。晴れてたか、雨だったか。それ以前に昼間なのか、夜なのか。しかし、この一文を読むだけで空想は勝手に広がっていく。映画アマデウスの影響もあるだろうけども。以下、空想。

 ビリヤードが好きだったモーツァルトはビリヤード台の上で作曲を行っていた。ウィーンの安ワインを飲みつつだったが、味を楽しむよりは、酔いに任せて筆を走らせるためにがぶ飲みしていた。
 モーツァルトは焦っていた。自分の曲がなぜ、お偉方に理解されないのか。こんな名作ぞろいなのに。こうなりゃ、大衆にまず理解させて、暴動でも起こして、立場を逆転させてやろうか。つうか、ちょっと飲みすぎたか。気持ち悪く…。目もくらくらしてきた。ロウソクの火が揺れてやがる。止まれよ。つうか、誰かがドア叩いてる。借金取りか。やばいな。まだ、金の用意が出来てない。黙っていれば、そのうち帰るだろ…。

30分後。まだドアを叩く音が部屋に響く。
 まだ、帰らないのかよ。いい加減にしてくれよ。普通、諦めるだろ。しょうがない。開けてやるか。酒臭いけど、お前のせいだからな。

 なぜ、男は帰らなかったか。手紙を渡さずに帰れば、主人に怒られるし、何より報酬が手に入らない。この男だって金に困っていた。この金を受け取らなければ、明日にも怖いお兄さんたちが部屋に押し寄せてくることが分かっていた。それにモーツァルトが部屋にいることも、事前の調査で知っていた。自分の仕事は手紙を渡すこと。それだけで、とりあえずの生活はできる。必死だった。

 そんなことは知らずモーツァルトはドアを開ける。安ワインですでに頭はくらくらし、焦点は定まらない。そんな状況で見えてくるのは、つぎはぎだらけで、薄汚れて、シミがまだら模様を作る灰カムリのような男。ようは、薄汚かっただけだが、部屋の暗さとで、”灰色を着て異様な風采”な男に見えた。しかし、男の方にしても、安ワインで飲んだくれ、目が血走っているようなモーツァルトだって同じようなものだったに違いない。お互いに似たような感想をもったが、それは口に出さない。モーツァルトの頭の中では夜の女王のアリアが響き渡り、割れるような痛さになっていた。男は、酒臭さにたまらず、さっさと仕事を仕上げようと手紙を無理やり、渡して部屋の前から走っていった。建物を出ると吐いた。
 一方、モーツァルトは手紙を読んだ。レクイエムの依頼だった。依頼主は分からない。しかし、男の異様さから重要なものと思い込んだ。

男は依頼主から金の入った袋を受け取り、数枚をポケットに入れ、借金取りの家に行き、渡した。まだ借金は残っているが、少なくとも家を立ち退く必要はなくなった。ポケットに入れておいた金で久々の酒を楽しんだ。

 モーツァルトは、手紙を何度も読み返した。自分にレクイエムを作曲しろだと。このクソ忙しい時に。つうか、あいつはなんなんだ。気持ち悪い服装で。こっちまで気持ち悪くなってきた。ワインをまたがぶ飲みする。だんだん腹が立ってきた。とりあえずは魔笛にとりかかる。気がつくと、ザラストロと冬の女王の立場が逆転していた。冬の女王のアリアで頭がいたくなった腹いせだった。

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2008年9月18日 (木)

結局、マーラーって

 昨日、N響のマーラーの演奏について書いた。日曜に聴いてから、ずっと考えていたけども、まだ、考えに変化は起きてこない。

 結局、言いたい事は、あのときの演奏は、まとまりがなく終わってしまったということ。
どうして、そういうことになってしまったのか、がまだ明確にはなっていない。

 マーラーというと僕には、まず、雄大と虚弱の音楽というイメージがある。
耽溺といわれるバーンスタインの演奏、歌わせるショルティの演奏、深淵のように聴かせるバルビローリの演奏といろいろな種類がある。しかし、その根底にあるのは、さまざまな音で作り上げられる雄大な音楽だ。ブルックナーのように、教会的な、オルガンを聴かせるような重厚さとは違い、これでもかと攻撃的に音を積み上げていく。しかし、その中に弱さを感じさせるところがあり、その弱さは死んでしまうんじゃないかと思わせるくらいに、あまりにも弱弱しく、なかなかほうっておくことができないところに惹かれてしまう。

 今回のマーラーの5番なんぞはその良い例ではないだろうか。トランペットのあのメロディ。ちょっと音をいじれば、メンデルスゾーンの結婚行進曲になるけども、それを早々行進曲として演奏させる。強い自我。他を笑い飛ばし、俺を見よと前面に出てくる。しかし、その自信が強すぎるゆえに、弱いところがでてくると、たとえば2楽章のチェロのメロディが1楽章にも聴こえてくるが、とたんに不安を作り出す。強さはこけおどしなのか。このギャップこそがマーラーなのだと思っている。外圧と戦い、自分の死について恐れ続けた作曲家の顔がそこに見えてくるのだ。だからこそ、マーラーの曲は、耽溺でも、歌わせるでも、深淵でもさまざまな作り方ができ、聴く側はその違いまでも楽しむことができるのではないだろうか。

 結局、僕が聴いたN響の音楽はそのどれもが、中途半端になってしまっていたのかもしれない。もしくは、新しいアプローチをしかけていたのかもしれない。

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2008年5月10日 (土)

カラヤンの生誕100年

 久々の更新。最近、芸能人とかのブログを見ていることが
多いのだけど、良く毎日更新できなるなぁと感心している
人間です。少しは見習わなくてはいけません…。
 今年は帝王カラヤンの生誕100年の年。といっても、
カラヤンだけではなく、ナニワの大将朝比奈隆の生誕100年
でもあります。別のジャンルに目を向ければ、名優長谷川一夫。
小説では永井荷風の「あめりか物語」が刊行された年。
なんでこんなことを知っているかといえば、2000年に新潮文庫
で組まれたシリーズ、1901年から2000年まで1冊ずつその年に
刊行された本を取り上げた「新潮文庫20世紀の100冊」で、
1908年は永井荷風「あめりか物語」が割り当てられていたから。
で、僕はそのとき、その本を買った。もう、背は日に焼けて
薄くなり、プレミア(がつくかどうかわかりませんが)的な価値は
ほぼゼロに等しくなっている。まぁ、どうでもよいのだけど。
 1908年に生まれたカラヤンは、それこそ20世紀を代表する
指揮者でした。全てを手に入れたけど、それが果たして幸福を
もたらしたどうか。ほとんど小説になるような生涯のように思える。
ヨーロッパ中のオーケストラを手中に収め、自家用ジェットで、
世界中を飛び回る。そこに至るまでに幾多の苦労、陰謀。
苦労して手に入れたオーケストラとの決別。
果たして最後に彼が見たものは?! と入れれば、立派な
ドラマが出来上がる。
 僕個人的なことを言えば、カラヤンの作る音楽は、まだ良く
分からない。分かろうとしていないところもあるけども。
でも、彼がいなければ、ここまでCDで音楽を楽しめることも、
なかったのではないだろかと、ふと思うときもある。
CDだか何かを作るときに、時間を自分のベートーヴェンの第九が
入るように設定したのは有名な話だし、自分を全面に押し出し、
クラシック音楽のより一層の大衆化を果たしたといわれている。

 さきほど、カラヤンが作る音楽は、分からないと書いたけど、
その少ない範囲でも書いてみたくなった。
カラヤンの演奏は、語弊があることは重々承知だけど、
どこにも力が入っていない。どこまでも自然である。
楽譜に忠実な上に、ワンポイントの演出を加える。
それがよく言われるレガート奏法だと僕は思う。
心地よく聴こえ、音のひとつひとつが、耳に馴染んでくる。
まさにBGM。飽きることなく聴けるのが特徴なのではないだろうか。
ちなみに、僕は、実演を聴いたことがないからCDで判断している。
フルトヴェングラーやトスカニーニといった、それこそ個性の
塊のような演奏を聴いた後で、カラヤンを聴くと、物足りない。
という話になってしまうのだろう。しかし、泥臭さがなく、優雅な
音楽を作り上げるというのは、やはり一種の才能が必要だ。
カラヤンが生きた時代、二つの戦争を過ごし、人々は生活の
豊かさを求めてきていた。日本でいえば、高度成長なんぞが
それだと思う。そこでは泥臭さは排除され、綺麗なものが
望まれていた。その点、カラヤンは求められたか、察知したか
は分からないけども、うまくマッチしていたのではないだろうか。
しかし、カラヤンの死とともに、21世紀に入り、エコが叫ばれ、
シンプルさがより求められている時代に入った。
この声をくみ上げ、自分の音楽に取り入れてくる指揮者が、
次世代のカラヤンになってくるのではないか。
その指揮者が死ぬときは是非、知りたい。死ぬとき、何を
見たか、と。

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2008年4月 8日 (火)

苦手だったけど

 苦手な曲は誰にもあると思う。
 僕の場合は、モーツァルトのハフナー交響曲とラフマニノフの
交響曲第2番。ガイドブック等を開けば、どちらも名曲と記されている。
ラフマニノフはたぶん、まだしばらくは受け付けられない。
いわゆるロマンティックなメロディが盛りだくさんですぐに食傷してしまう。
押し売りをされているといった感覚にもなってしまう。
残念だけど、しょうがない。自分の器と合わないのだから。
時間がたって、器が変わるのをとりあえず待っている状態。

 さて、モーツァルトである。ハフナー交響曲。第35番。
モーツァルトの父レオポルドの友人ではったハフナー侯爵
の息子が爵位を授与されたため、そのお祝いの曲として
作られたもの。とはいってもこのとき作られた曲は、
セレナードといって、貴族の会食やピクニック、祝典で演奏される
BGMだった。ウィーンで交響曲を演奏しなくてはいけなく
なったモーツァルトが、このセレナードのメヌエットとマーチの
楽章を削って交響曲に仕立てた。
 と、曲の概要はこんな感じだけども、何が苦手か。
曲の出だしからあまりにも貴族的、高貴的すぎて小市民の
自分にはほとんど合わない。初めて聴いたときから、この
考えに捉われていた。
 しかし、よくよく聴いてみると、確かに表面的には貴族の
匂いがぷんぷんしているけども、それだけではない何かが
ある。そう思うようになってきた。例えば出だし。こんなに
見事に仕上がっている曲ってない。オクターブの跳躍を
するだけでこの曲の方向性を見せてもらってしまったように
さえ思える。あとは、この中を音階や、分散していくだけで、
作り上げている。これって、すごい。と感心感激をしてしまったのです。
その後に続く追いかけっこ。この頃、バッハの研究をしたと
僕のCDの解説には書いてあるけど、それがこれかしら。
たぶん、4楽章にそれが出てきているようにも思える。
と、スコアを持ってなく、CDを聴いて書いているだけだから、
詳しいことは書くことはできないけども、ふと聴いてみようと
思ったときにいろいろな発見があった。
この交響曲が作られたのは1783年。ちなみに41番ジュピターは1788年。
モーツァルトにとっては晩年に差し掛かった年代といえる。

新年度から音楽以外についても書いていこうと思ったのだけど、
前回、そんな宣言もしてしまったのだけど、
それはまた次回にしてみたいと思う。

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2008年3月10日 (月)

多分に深読みです。

 キリスト教が求めた禁欲とはなんだろうと考えたところで
いまだに浮かんでこない。そりゃ、キリスト教とは無縁の
生活をしてきていたから浮かんでこないだろうよ。自分の
経歴には中学、高校とミッションスクールに通っていた事実
があるから、上っ面は無縁ではないのだけど、聖書を少し
読んだくらいで、大して身についていない。先生ごめんなさい。

 なんで、こんなことを書かなくてはいけなくなったかといえば、
前回、フォーレのレクイエムに関しての考察(?)的なもの
を書いた流れによるから。余計なことを書くんじゃなかった
と思いつつ、その時考えたことを進めてみたい。

 フォーレのレクイエムには、彼の心の本質そのものを
聴き手に強く与える。これは「感覚のよろこび」という
官能性を秘めているのではないかと、CDの解説から読み取ってみた。
 キリスト教の大切な音楽レクイエムの中にそういったもの
を入れるというのはどういうことなのか。キリスト教は、
禁欲の世界というようなイメージを勝手に抱いていた自分は
そこに引っかかりを感じていた。
 しかし、そうではなさそうだ。いつだったか読んでいた本
の中で、ベルニーニの「聖女テレサの法悦」という彫刻に
は、神と一体になれるものが目でわかると書いてあった
のを思い出した。この彫刻は、聖女テレサに向かって
天使が矢で突き刺そうとしている瞬間を捉えたもの。
そのときのテレサの顔は、法悦という言葉ではなく、
恍惚といった言葉に置き換えたくなるような表情をしている。
ようは、神と一体になって昇天している表情だとその
本の著者は指摘していた。ちなみに作家の名前は澁澤龍彦。
  (と、書いたところで、タイトルを出しておこうと本棚をひっかき
  まわし、持ってる全ての澁澤本をぱらぱらとめくってみたけども、
  見つからない。果たして、澁澤だったかどうかも、はっきりと
  していなく、大変恐縮だが、何かで読んだことは確かで、
  ここをとってしまうと話の展開が出来なくなるので、あえて、
  このままにする。本のタイトル等が判明次第、掲載したい。)
フォーレのレクイエムに隠されていたものはこれと似たような
ことだと指摘できないだろうか。死者を赦す、安息を得られる
ように祈る。これがレクイエムの原点だと自分は考えている
が、赦す、安息を与えるのは神の意思。
人々がそれを望んでいるのは、別の見方をすれば、彼を赦しを
求めることで、自分たちにも平安が訪れることを期待している。
違う言い方をすれば、死者は人身御供といえなくもない。
日本にも似たような風習、「日本書紀」に書かれていると
いわれる人柱の話も一言で言えば人身御供だろう。
例えば、ヨーロッパにもそういった習慣があったとして、
それを後世に歌として伝えた。レクイエムはそれが始まり
だったとしたら…。時代が下って普通に死んだ人への歌
となっていった。
ただ、人身御供として死んでいく人が、恍惚とした顔立ち
ではなく、苦しみ抜いた表情をしていたら、残虐という印象を
人々に与え、宗教側も、考慮せざるを得ない。もちろん、
これは今の感覚で書いてあるであって、人身御供が
あった時代に残虐かどうかと考える人がいたかどうかは、
別の問題になるけども。
とりあえず、だからこそ、神と一体になれることで、恍惚とした
表情を作ることが、宗教を伝える側にとっては必定だった
とも考えることもできるだろう。また、恍惚として死んでいく人に
対し、自分たちの持つケガレを託し、赦しを得ようとする庶民たち。
恍惚として逝くのだから、少しは分けておくれよ、的な。
レクイエムは、鎮魂歌という面を保ちつつ、自分たちの救いを
それこそ必死に、得ようとする人間への賛歌でもあるのかも
しれない。
深読みしすぎました。

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2008年3月 3日 (月)

眠れぬ夜は

 最近、眠れないことが多い。布団に入って考え事をして、
テンションが高くなって、気がつけば空が白んでいる…
まではいかないけども、まぁ、それに近い時間になっている
ことが多くなってきた。
 布団から出て、テレビでも見ようかとも思うけども、ぬく
ぬくした布団からでるのは、心地よい夢から覚めるのと
同じくらい寂しいこと。そもそも電気をつけたらもっと眠れ
なくなるのでは、という予感もある。
 そんなときのために、自分は布団の下にディスクマンを
置いておく。ここから、イヤホンを引っ張り出して聴く。
曲は、テンションがもっと上がるのを抑えるため、なるべく
大人しいものを選ぶ。マーラーやチャイコフスキーなんて
もっての外。ブルックナーには驚かされて起きちゃうなんて
ことも考えられるから却下。室内楽などが望ましい。それ以上
に望ましいのが、レクイエム。
 俗にいう3大レクイエムのうち、モーツァルトとフォーレを
好んで聴く。厳かな空気の中、寝てしまっていることもあるし、
天国に運ばれていたらいいな、なんて大して期待も出来ない
ことも期待できるからだ。
 モーツァルトとフォーレのうち、特に聴くのがフォーレ。
「怒りの日」がないため、静かなうちに曲が進んでいく。
それにフォーレの音楽に満ち溢れている。といっても、
まだ、室内楽と他何曲かしか聴いたことがないため、分かって
ないと言われてしまえばそれまでだけど。
 これまで聴いてきたフォーレの音楽を言葉で説明する
ならば「音の線の重なり」だと思う。弱々しい線の上に
彩り豊かな線が重なっていき、音の流れとして耳に入って
くる。当たっているのかどうかわからないけども、アート用語の
アール・ヌーボーの音楽に感じる。本によれば1900年代
初頭にアール・ヌーボーは流行りだしたらしいから、1888年に
発表されたこのレクイエムは、もしかしたら音楽分野での
走りなのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
ようは、分からない。
ただ、レクイエム以外でも、ピアノ四重奏曲でもそういった
印象を受けた。CDの解説には「禁欲的な信仰のきよらかさ」
と「感覚のよろこび」という単語がでてきた。華美な衣装を
まとった音楽とは一線を画している。しかし、それによって
フォーレの心の本質そのものを聴き手に強く与えるのでは
なかろうか。「感覚のよろこび」は官能と言い換えが出来ないだろうか。
キリスト教の神世界へ少しでも近づくことが出来るのは、
心のひだを動かす官能となるのだろうか。
だとすれば、キリスト教が求めた禁欲とはなんだろう…。

…使わない頭はこれ以上動かない。ふだんから程よく
使わないとダメですね。今日はこの辺りで消えます。
ちなみにCDの解説と書きましたが、そのCDは、
クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団の解説です。
もう一枚、好きなCDを書いておくと、
ミシェル・コルボ指揮ベルン交響楽団
クリュイタンス盤では、ソプラノが歌っているソロを
ボーイ・ソプラノが歌っています。緊張しているのか
声が震えていたりして、より一層の臨場感。
曲全体でも、抑制が効いていてクリュイタンスよりも
聴いています。
ちなみに、ミシェル・コルボは、5月のラ・フォル・ジュルネ
にくるそうです。ロッシーニのミサ曲だかなんだかを
やるようで。また、熱い日になりそうです。

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2008年2月 5日 (火)

うなり声の効用(改題)

 昨晩、ここに戯れ言を書き残したあと、モーツァルトのCD
を聴いていた。

ピアノ協奏曲20番
ルドルフ・ゼルキン独奏
ジョージ・セル指揮コロンビア交響楽団

モーツァルトの残したピアノ協奏曲の中でかなり、好きな
曲だ。このCD自体、何回も聴いたし、他の演奏家たちのも
聴いたり、映像で観たりした。
で、また、このCDに戻ってくる。フナ釣りじゃないけど、たまに
聴きたくなってくる。
だいたい、どんな感じか覚えてしまっているから、違う聴き方
も気になってくる。音楽ではない違う音に関しては、特に。
セルの呼吸音とかゼルキンのうなり声。
と、書いても呼吸音の全てがセルではないかもしれないし、
呼吸音もゼルキンだけでないかもしれない。
他のCDではセルのうなり声も入っていたりするからだ。
ただ、弾き振りじゃないからゼルキンの呼吸に合わせて
オケがえんそうすることもないんじゃないか?そう思っているだけ
のこと。
うなり声で思い出したけども、結構、音楽以外の音を残して
いる指揮者が多い。有名どころでいえば、
フルトヴェングラーの足音とか。トスカニーニのうなり声とか。
ただ、今生きている指揮者の中では炎のマエストロさんが
トップクラスじゃないか。
自分が学生時代(クラシック聴き始めの時)のとき、新宿の
タワーレコードが主な狩場だったけど、試聴コーナーで
聴いてみてびっくりしたのを今でも覚えてる。
新世界だった。4楽章だけを聴こうと思って、
合わせたらいきなりうなり声。
録音が失敗だったのかと思ったらそうじゃない。
心の叫びが音になって聴こえていた。
こっちがうなりたくなる。。
以来、ポスターや演奏会で観るたびに、
気になってしょうがない。
いつぞや、芸大オケでハルサイをやったときもそうだった。
指揮者は頭の中で、自分の音楽を流し、
オケがその通りにやっているかに注意が向くとなんかで読んだ。
だから、うなるというのは頭の中で自分の音楽が流れている。
そんなことになるのだろうけど、ちゃんと聴こえているのだろうか。
ま、聞こえてるんだろうけど。プロだし。
ちょっと心配になる。そういえばあの時も…なんて思い当たる
フシがなきにしもあらずだけど、オケとあっていたから、
やはりプロで、伊達に海外のオケを手兵にしてないな、って
思ったりもする。
他にもうなり声でほぉーと思うのが、バルビローリだったり。
ただ、この場合、某国で買った海賊版のマーラー5番だから
本当にこの人が振ったものか、信用がおけない。
それにしてもすごいうなり声だったな。
一楽章から飛ばしてる。
聴いてるこっちが疲れちゃう。

追記
とは、いってもお気に入りのうなり声というか、声がある。
チェリビダッケです。ここぞというところで聴こえてくる
フィンだかティンだかという声。
それにオケはドドーンと返します。
指揮者とオケのある意味ではバトルをまざまざと、
またチェリビダッケの狙い、意図が分かりやすくて好きです。

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2008年2月 4日 (月)

寒いっすね。こんな時には悲愴でも。

 昨日、雪が降ったせいか、とても寒い一日でした。
寒いとどうしても、ロシアの曲が頭に浮かんでくるのは、
僕だけでしょうか。僕だけでしょうね…。
今日、一日、頭の中を流れていたのは悲愴でした。
そうです、チャイコフスキーの悲愴です。指揮は誰だろ。
最近、そう昨日ここに書いたムローヴァのCDと一緒に買った
スヴェトラーノフかもしれない。
僕が一番最初に買った悲愴は、ムラヴィンスキーでした。
1960年、ウィーンのムジークフェラインザールでの録音。
高貴な印象とともに、ローカリズムたっぷりの演奏。
鋭く刺すような金管の音とともに、やさしく包み込む弦楽器、
道化のようにおどけたり、甘い音色で耳を癒す木管。
全てが僕の宝だったような気がする。
ここまできたら、他に買う必要ないでしょう。
そう、買う必要はないんです。
でも、人間はわがままなところがあるんです。そのときの
気分によって、聴きたい悲愴が変わるんです。
弦楽器の包み込むような音なんて、いらねぇんだよ、
とことん金管楽器の爆音が聴きてぇんだ。
まぁ、マゾヒズムが爆発とでもいいましょうか。
否定はしません。金管の音におぼれたい。
そんなときに、思いついたのがスヴェトラーノフでした。
当たってんのか、当たっていないのか。
買った人間にしか分かりません。
個人的には、まぁ、当たっているけど、思ったほどではない。
一般にスヴェトラーノフというと、金管アクセル全開の、
全てを行進曲に聞かせてしまうような、印象があるみたいだけど、
僕にはそう思えないんですね。チャイコの4番、ショスタコの5番、
チャイコの5番(N響版)と聴いてみたけども、やはり根底にあるのは
ローカリズムとロマンチズム。ロシアッというそのものずばりの中に
甘く、とろけるようなチャイコお得意のロマンチズム。
いつかも書いたけど、その頂点はチャイ5の2楽章にあると思います。
悲愴はそういったものを違う視点から描いている。
悲愴はドストエフスキーの音楽版のように僕には聴こえるのです。
あれ?これも書いたかな。ドストエフスキーは、人間の
さまざまな業を描いて、それを許容するのが神だと書きました。
(前回に引き続き、勝手な妄想です)
それをチャイコフスキー風にアレンジ、もしくは解釈したのが
悲愴だと僕は思っています。チャイコフスキーはゲイだった。
今は、なんと言われているのか僕にはわからないけど、
ムラヴィンスキーのレコード、CDが発売されたときは、そういった
学術報告が解説に書かれていました。
悲愴初演の一週間後に砒素を呑まされ、自殺に追い込まれたとも。
一週間後だったっけ?ちょっと奥の方にあって確認は、
とれないけども、本当かどうかは置いておいて、そういった
ことが書かれても、あぁやっぱりね、と思わせる時代だった
ことは間違いない。まぁ、こっちの勉強不足で、それを受け取る
しかないというのもあるけど。
とりあえず、悲愴の4楽章でドラが鳴る。これは、神が死んだという
ニーチェ的な発想だったら、どう聴こえるか。
ただ、音楽をギンギンに追い詰めて研究した指揮者だけには
絶対に分からない、分かってほしくない、音楽がここにはあるような
気がしてならないのです。
それが誰とは言わないけども、というか思いつかないけど、
僕にはそう聴こえてならない。だからこそ、
スヴェトラーノフのような金管全開のスタイルでも、
4楽章の出来不出来で、その真価が問われてしまう曲なのではないだろうか。
個人的には、スヴェトラーノフとムラヴィンスキーは、別々の
登山口から同じ山の頂上に向かっているように思える。
それが、エベレストなのか、富士山なのか、キリマンジャロなのかは、
わからないけど。

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2007年12月31日 (月)

年の終わりと始めには

 暮れです。大晦日です。早いですねと思いたいけど、な
ぜか年の暮れという感覚がなく、普通の日曜日みたいな
気がしてなりません。どうしてだろう。と、考えてみたけど
特にこれといって何も思いつかず…まぁ、思わなくても年
は暮れていくわけですな。
 この前は、シチュエーションに合わせてどんな曲を聴いて
みるかとやってみたけど、その続きみたいなもので、年の
暮れと始めにどんな曲がいいかなぁと掃除しながら考えて
みました。
 暮れといってもあと数時間だから、大してお役に立つとは
思えないけどね。とりあえず、こうちょっと寂しい感じのする
曲が良いのではない?みたいな感じで、勝手にセレクト。
ブラームス交響曲第4番
これでしょ。チャイコフスキーの悲愴もいいけど、最後のドラ
だっけ?が除夜の鐘っぽくて、大晦日にはあうと思うけども

ちょっと、新年を迎えるのにはな、と敢えて外してみた。
ブラームスの4番は、やはり孤独な大晦日なんです。
前回では、楽章だけ取り上げたりしたけども、今回は、全曲。
1楽章からしてきてます。ミゾレまじりの雨といったような印象
で、2楽章では過去の栄光、3楽章はやけっぱちのアリス。
最後の4楽章は諦念。と、もちろん、自分だけの印象だけど
そう作られているようにして思えない。でも、これって、ただの
成功者には味わうことのできない人生のスパイスのような気も
します。そういった視点で一年を振り返るといつもとは違った形
で、思い出が頭をよぎる。それもひとつの楽しみにできるのでは
ないでしょうか。

 さて、新年。初聴は何にするかといろいろと悩んでいる方も多
いのではなかろうか。といっても自分もその一人。もし、前年
のお酒が残っていたら派手めではなく、じんわりじんわりと温泉
のように効いてくるのがいいのではないでしょうか。そんなわけで
ベートーベン交響曲第9番
おい、年末に聴いたよ、大晦日にN響みたよって突っ込みがあり
そうだけども、あの1楽章のなんだかわからない入りだし。もう、
今年一年、なんか楽しいことがあるかもしれないと思わせたり、
なにより、頭に響かない。他に考えていたのだけど、忘れちゃった。
とりあえず、変化球です。他に似たようなものは、
マーラー交響曲1番
まぁ、ベートーベンのパロディとして作ったなんてうわさも
あるくらいだし、これも面白いかもしれないっすね。
ただ、4楽章の出だしで、頭に響くかもしれないので、
要注意です。
 もし、お酒が残ってない場合、これはもう決まりです。

マーラー交響曲8番
天孫降臨!! といったはじめで、もうこれを聴けば一年
幸福に包まれているんじゃないかと思えるような曲。
音の渦に巻き込まれましょう。

ではでは、良いお年でありますように。

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2007年12月20日 (木)

気がつけば

 気がつけば、前回の更新から早2ヶ月・・・。サボりクセ
が、骨身に染み付いているとはいえ、サボりすぎました。
更新しなきゃなぁと思い思いつつ、怠惰な毎日を送って
います。冬です。そろそろ休みが近づいてきて、気分は
高まる毎日。堕落万歳。
 とはいえ、なんか書かないとせっかく作ったこのページ
の意味がない。ということで、湯船で考えてみました。編
集でいうところの企画会議みたいなものですな。
 で、今回は何をしてみるか。休み→旅。ということで、
旅にあうクラシック音楽を紹介してみます。もちろん、僕
個人の独断と偏見だけでセレクト。異論反論オブジェク
ションは、受けつけてないので、ご了承ください。
 旅といってもいろいろなシーンがあると今、思いました。
早速、企画変更、旅のシーンにあうクラシック。これでいき
ましょう!
 その1.車で高速を乗っているとき
なんといってもワグナーの「マイスタージンガー前奏曲」ですな。
曲が始まると同時に思いっきりアクセル踏んで、攻めて
ください。これから楽しいことだけが待ってるゼ的な気持ち
になることは間違いなしです。音は綺麗なほうがより効果が
あるかも。いろいろなワグナー指揮者がいるけども、ここで
は、敢えてチェリビダッケを推したい。チェリの実演は、残念
なことに聴く機会はなかったけども、いろいろと出てるCD聴くと
音の綺麗さはかなりのもの。各楽器が透き通るように、きちん
と聴こえてくる。同じ会社から出てる別の指揮者では、そういう
ことがないから、やはりチェリの個性の一つなのかもしれない。
でも、渋滞の時は余計にいらいらするかも。
他の曲だったら、個人的な思い出だけど、チャイコの5番4楽章
も捨てがたい。アレグロだかヴィヴァーチェのところで、
曲に合わせてとんでもないスピードを出した奴がいましたねぇ。
そのとき、聴いてたCDはムラヴィンスキー指揮でした。
気持ち、分からなくはない。

その2.電車で林の中を走っているとき
これは、ブルックナー交響曲7番の3楽章です。木々が、
じょじょに蠢くような気分がしてきて、スリルが満点、どき
どきわくわくです。ゼヒ、先頭車両で、かぶりつきスタイル
で聴いて欲しいです。もちろん、線路は単線でないといけ
ません。関東だと、八高線の高麗川~箱根ヶ崎あたり。
高尾山や比叡山のケーブルカーも捨てがたいけど、ちょっと
短いのが残念。

その3.旅館で夜、空を眺めているとき
これは、月がでている晴れているという条件がつくけども、
やっぱり
チャイコの5番2楽章。果てしないエンドレスな感じ
とロマンティックな情景は、この曲しかないです。さっきは、
ムラヴィンスキーをあげたけど、この場合の指揮者は、
カラヤン。ロマンティックさだけを追求すれば、彼が一番
な印象を僕はもってる。音のすっきりさを求めるとセルも
捨てがたい気もするけど。

と、3つあげてみた。他にもいろんなシーンがあるはず。
思いついたら、ちょくちょく書いていきたいと今は思ってる。
意外にこういうの考えるの楽しいな。

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2007年9月19日 (水)

腹に力が入らない

 ブログだから、だらだらと書いてはいけないと思いつつ、
いつもだらだらと書いている。クセというか、他にこんなに
書ける媒体に出会ってないから調子に乗ってなのか。
 昨日、どんなにCDがたくさん出ても聴けるのは限られて
るよねぇ的なことをちらっと書いた。実際にそうだと一日経った
今でもそう思っている。
 だからこそ、CDのガイドブックが出るんだろうなぁとふと
思ったりもした。
 本屋に行った。また出てた。これまで出てたのとコメント
が違うだけで何が違ってんだろうと立ち読みしていた。
何も違ってなかった。残念だった。でも、名盤と呼ばれる
ものは確かに名盤で、持っているものはやっぱり聴いてる。
ミュンシュのブラ1とか、フルトヴェングラーの英雄とか
第9とか、セルのドヴォ8とか、クリュイタンスのフランス物
とか、クライバーの運命や7番とか、ムラヴィンスキーの
チャイコとか…。
それ以外にある隠れた名盤を掘り出して欲しいなぁって…。
まぁ、独り言ですが…。でも、他に良い物がないんだから
しょうがないじゃんといわれてしまえばそれまでだし。
そんなこと言っちゃぁおしめぇよだろけど。
とりあえず、この曲はこのCDを聴いとけ的は雰囲気も
出てるような気がしてならない。
 そんな中、僕は自分で聴いて(お金だして買って)良いな
と思ったのを紹介したい(だってブログだし)。
じゃあ、今回は誰にしようかなぁと思ってCD棚を見た。
誰も目を合わせてくれなかった。
今日はなんかいつも以上に力入らないなぁ。
昨日、CDの曲紹介でドニゼッティの曲名をすべて、アルファ
ベットにしたのだけど、まさかと思った方、正解です。
日本でのタイトル知りません。ごめんなさい。
調べればいいんだろうけど、まぁ、雰囲気も活かしたい
ってふと、言い訳的に思ったんでそのままにしちゃいました。
分かったら訂正します。今日はこんな感じで終わりにしちゃお。

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2007年9月 9日 (日)

哀れ、ベト8

 披露してみたいとかいいながら、なんだかんだで一ヶ月
サボってしまいました…。仕事があまりに忙しいなんて、
言い訳してみたりしても始まらない。
 言ったのは自分だけども、とても難しい問題で、日中、
他に問題というか仕事を抱えてしまっている人間には、
なかなかできる芸当ではないなぁと、軽く言うものではない、
と反省しきる毎日。
 とか、言いつつも、軽くここで書いてにごしてしまおうと、
今は考えている。まぁ、そのうち、どこかで書ける機会が
あるか、良い情報をゲットして、ここで紹介できるかもしれ
ないし。

 とりあえず、前回(一ヶ月前)にさかのぼるけども、どうして
ベートーベンの交響曲8番は、あまり演奏されないのだろう
と疑問を呈したことから始まる。で、ちょいと調べてみて、
ここで披露します、なんて(たぶんお酒に酔ってたのか、きっと
そうに違いない
)ことを言った。

 で、とりあえず、初演とか作曲された年代を調べてみた。
作曲時期は1811~1812。大体、ベト7とかぶってるみたいです。
初演は1814年(参考にベト7は1813年)。初演といっても、
公開初演で、パトロンなどに公開されたのは1813年。
ようは、ベト7と全てがほぼ同じ時期と見てよいみたいです。
ちなみに同時期に初演された他の作曲家の曲は、ロッシーニの
アルジェのイタリア女」。僕個人、全てを聴いたわけではく、
序曲だけ耳にしただけだけど、軽快かつロッシーニ節満載で、
晴れた日に、口笛を吹きながら、部屋の掃除をするのに最適な曲。
 で、このベト8だけども、初演の時に聴衆がどんな反応を
したかが書かれた資料をまだ見ていない。資料といっても
CDの解説やスコアの解説ぐらいだけども。それでも、書かれ
ていないというのは不思議な気がする。おかしいなぁおかしいなぁ
と気がつけば、一月たってしまった。

 大体、書かれていないというのは、理由がある。一つは、
解説を書いた人間も見つけられていない。もう一つは、
その時、演奏されたほかの曲に、気を引かれて、聴衆の
反応がにぶかった。
 にぶくかったけど、不評ではなかった。不評だったら、
そう書かれていてもおかしくはない。時代を下って、ブラームス
交響曲第4番は、ブラームスの友人たちの反応は、微妙で
誰もコメントしなかったとか、一番有名なのは、ストラヴィンスキー
の「春の祭典」の初演で暴動がおこったとか。
 つまり、それぐらいの感想しかもたれなかったということも、いえる。
でも、結論づけるにはまだ早い。ここは、要検討

では、これまで考えたことをちょいと羅列。
自問自答形式です。

 この曲の一番といっても良い特徴は、序奏がないこと。
4番や7番のように長いものから「英雄」や「運命」のように、
2音や2フレーズで終わってしまうものまで、ベートーベン
の交響曲には、必ず序奏がある。しかし、この交響曲だけ
ない。ドアを開けたら豪華絢爛なパーティ会場。でも、
あなたは穴の開いたズボン、ほこりのついた上着といった
みすぼらしい姿。もう外に出ることはできず、パーティに
参加しなくてはいけません。的な不条理な曲に聴こえて
きたのかもしれない。今まで違うよ。みたいな。
でも、第1楽章のあの華やかさは、それだけで、曲の
全てを語っていますねぇ。比べるとしたらモーツァルトの
ハフナー交響曲あたりか。
 というか、それだったら客は驚いたみたいな記述に
めぐり合っても良いのだけども。ということは、違ってるな。

 はい、次。さきほど、ロッシーニの名前を出したけども、
時代が、だんだんベートーベンから離れてしまった。
ロッシーニのいいように肩に力を入れる必要がない
音楽が受け入れられて、過度とは言わないけども、
集中を要求し、上からと思えるくらい押し付けてくる
ベートーベンの音楽を嫌がった。
 うーん、これは、当時の聴衆はそう思ったかもしれない
けど、今は、別にそうでもないような気がする。
今でも、演奏される機会が少ないと思われるこの曲。

現段階での結論は、こうです。
ベートーベンの交響曲は、彼の歴史でもある。
歴史といっても進歩ではなく、テクニックや表現方法
の幅が交響曲とともに、広がっていきます。
リズム動機だけで作り上げた「運命」や、リズム動機に
歌うことを要求したベト7。そうした中で、ベト8は、
歌うことに特化した曲と言えるのですが、歌を前面に
押し出した結果、どうにも、ベートーベンよりも前の時代の
曲に聴こえてくることが多々あります。彼の尊敬する
ハイドンやモーツァルトのような。
聴衆が求めているベートーベンの交響曲は、
重厚で、それこそ集中を要求してくる音楽。
ベト8は、それに応えているとは僕には、到底思えない。
もちろん、よく聴けばかなりすごいことが起こっていて、
それをさらりと聴かせるように書かれているのは、
やはりとてつもないこと。
しかし、音楽にそこまで求めている人ってどれぐらい
いるのでしょうか。そこで浮上した乖離がベト8の立場を
残念なことになっているような気がするのです。

以上、結果(あくまでも途中)報告でした。

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2007年8月 8日 (水)

最近はまっている曲は・・・

  パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルの
演奏を聴いてから早2週間が経とうとしている。この
間、一番、CDで聴いた曲はベートーベン交響曲8番。
紀尾井ホールで耳にした熱演が未だ離れず、そのとき
の余韻を楽しもうといろいろな指揮者で聴き比べをし
て遊んでいる。いろいろなといっても、トスカニーニ、
フルトヴェングラー、セル、ヤルヴィの四人。
 この曲は、そこまで興味をもっていなかったため、
買ったCDのおまけ(みたいな)感じでついていたも
の。今から思えばなんて、良い買い物をしていたのだ
ろう、やはりセンス良いなと思う。
 この曲は、昔から人気がなかったみたいだ。
かのロベルト・シューマンは言う。

「ベートーヴェンの交響曲の中、このヘ長調の曲が一番演奏されない。
 ベートーヴェンの交響曲がすべてこれほどしみこんで、ほとんど大衆化しているライピツィヒでも、ユーモラスな深味をもったこの曲が、ほかの交響曲に一歩ゆずっているという偏見が行われているが、この曲の最後の楽章の終わりに近づくにつれて高潮してくるところなぞ、ベートーヴェンの中でもざらにないくらいであるし、変ロ長調のアレグレットをきいていると、ただもう静かにして幸福になっているより仕方がない
ような曲である」(吉田秀和訳 音楽と音楽家シューマン著 岩波文庫)

と、ある。しかし、今でも他の曲に比べればあまり聴く機会がないのは事実だ。今年は、ベト7の当たり年であったし、年末になれば第9がいたるところで聴こえてくるだろう。

 それにしてもなんで人気がないのだろう。最近、ベト7について調べる機会があったが、それによれば、ベト7の作曲年代は1812年前後。ちょうどナポレオンがロシアに負けた年。チャイコフスキーが作った第序曲「1812年」のもとになった年と言ったほうが、クラ
シック好きには通じるかもしれない。
 まだ、調べている最中だけども、なんでそこまで人気がないのかが気になってしょうがない。いろいろと仮説とかたててみた。それをしばらくここで紹介?検証?披露?してみたい。

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2007年6月18日 (月)

みんな大好きベートーベン

 ベートーベンの尊称は楽聖。そんなわけかどうか知ら
ないけども、たくさんのCDが世に出てます。前回、紹
介したのもそうだし、ここで取り上げてみた指揮者の全
員がベートーベンの曲を録音している。やっぱり一度は、
やってみたい作曲家の一人なんだろか。この前、読んで
た本に、某有名どころの指揮者がベートーベンやりたい
って駄々をこねてたみたいなことも書いてあったし。某
って、その本では実名で書かれていたから、出してもい
いか。アンセルメです。別に今回、アンセルメについて
書こうとは思ってないし、これで退場してもらうけど(またの機会にでも)。
で、ベートーベンです。来月、7月にベートーベンを
まとめて聴けます。そういえば、この前、チョン・ミョンフンが
パリのオケとチクルスをやっていたけども、
何度目かのブームがやってきているのだろうか。
ベートーベンをキーワードに見てみると、例えば、また最近、
東京上野の文化会館で、ピアノ協奏曲全曲を一日で行われたり、
大晦日になると、これも同じ文化会館で、交響曲全9曲がやられたりと、
多分、聴けない年はない。みんな大好きベートーベン。
で、最初の話題に戻るけども、あんなにCDが出ていても、
同じ楽譜を使っているのにも関わらず、実は違うことを
やっていることが多々あるんじゃないかということにさっき、
気がつきました。
 来月にベートーベンを聴かせにやってくるパーヴォ・
ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルのベト7を聴いて
いたときの話。CDジャケットには、ご丁寧にも、ベーレ
ンライター版使用と書かれています。最近の指揮者は、
皆、これを使うのだろうか。僕の知っている二人の日本
人指揮者はこれを使っている。他に知っている指揮者が
いないから後は、調べようがないけども、ネット検索し
てみても、この版が流行っているのは間違いないと思わ
れます。
 僕も買ってみました。最初に研究結果が書かれていて
(英語とドイツ語)、ふむふむと辞書を片手に読みふけりましたよ。
フォルテやクレッシェンドなど各指示には、きちんと、
ベートーベンの意思があるから、原典になるように
直しました(かなりの意訳。誤訳の可能性大)。とあって、
オリジナル主義の人たちが納得出来るものになっている
みたいです。僕は、そんな主義ではないし、曲を変えな
い程度ならいじってもいいんじゃないかなぁなんて思っ
たりもしたけども(いわゆる19世紀から20世紀前半に
主流になったのものを見たり聴いてきたから…見てはいないか、さすがに)、
やはり時代は変わったのだろか。オリジナル楽器が出てきて、
いろいろな批判もあったけども、新しい潮流が生まれつつ
あるのだなぁというのが感想です。
 で、パーヴォ・ヤルヴィとドイツカンマーフィルの演
奏で、たまたまスコアを見ながら聴いてた4楽章。スコ
ア上には、ないクレッシェンドや、アクセントなどが見
受けられ…、でもそれはそれで面白いなぁと。人数が少
ないからそういった独特な勢いを作れるのかなぁと。
アクセントだけども、具体的な場所を示すと最後のほうで
す(419小節あたり)。持ってない人のためにどんなとこ
ろかといいますと、4楽章の有名なメロディが後半部にま
たありますが、その後、弦の追い込み(シラソファミレ
ドシ、ドシラソファミレド、レドシラソファミレ、ミレ
ドシラソファミ:ド・ファ・ソに♯)ときて、木管・金
管がフォルテ三つで音を伸ばす。この弦の追い込みの各最初の音、
シ・ド・レ・ミにかなり強いアクセントがついているのですね。
つくことで、追い込みがより鮮明になって管楽器がオリャーって
出したくなってくるような。
ま、勝手な想像ですけど。他の指揮者、例えばクライバ
ーやフルトヴェングラーを聴いたときは引っかからなか
ったけど、なぜか、気になりました。これは、要研究で
す。そのうち、研究結果をご報告。最近、そのうちを多
用してますね…。全部、できるかは、僕の腕と頭次第な
んで、乞う不期待。

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2007年6月11日 (月)

先日のお約束…

 先日、ここで書いたグスターボ・ドゥダメルのお話。
買いましたよ、CD。ベートーベンの交響曲5番と7番。
DVDコーナーを見ていたら、ローマ法王を前にして
演奏していました。やるな、おぬしと期待を胸にお家に帰って早速、再生。

 26歳の彼だけど、落ち着いてオケをさばいているのが
第一印象。この5番と7番なんて、それこそ星の如くに
CDが出ていて、名盤といわれるCDすら、銀河系の彼方
までの星並みに出てる。クライバーにしろ、フルトヴェ
ングラーにしろ皆、名盤と言われています。もういじく
りまわされすぎて、たいしたものは出ないだろうと腹を
くくっていました。結果…やっぱりなぁ、出ないよなぁ
というのが本音。軽快なテンポや厚くない仕上がりは、
古楽器演奏とモダン楽器演奏の間を行く今風。形式的に
はトスカニーニの流れですかね。それでも5番の2楽章
は誰かの言葉ではないけど、「天国的な美しさ」がある。
最初のチェロの出だしは、鳥肌ものです。結論ぽいもの
を先に言えば、聴かせるところは聴かせてくれるし、王
道といったところでもある。これは7番にも言えること。

 ただ、ひとつ大事なところが。それは、中弦の扱い。
これらの曲に関係しなくてもいえることだけども、キザ
ミをどう聴かせるのか。これは特に7番で感じたことだ
けども、一つのメロディのように扱っている。これがと
ても楽しい。一般的な認識かどうか知らないけども、キ
ザミは、和音の構成要因としてはもちろん、テンポ感を
作るのに、一番重要なものとなってくる。それをうまく
一つの旋律的なものとして扱っているのが印象的だった。
 

 ただ、そういった扱いは、彼だけのものではなく最近こ
れも最近発売されたものだけども、パーヴォ・ヤルヴィ
のベートーベンこれは4番7番の組み合わせだけども、
ドゥダメルの7番と何が違うのかといえば、冒険心では
ないだろうか。ヤルヴィの方が、楽譜にないダイナミク
スなどを用いて、それこそかなりのテンポで攻めていく。
日本で今年も演奏するらしいけども、今から僕は楽しみ
にしている。CDを聴いていると何かしてくれるんじゃな
いかと感じさせるのがヤルヴィの特徴と言える。ドゥダ
メルの指揮は、そういったものではなく、この曲はこう
やるのが一番正しいんだ(ヤルヴィもそう思っているだ
ろうけど)というのが前面にきている。聴かせどころ、
押さえどころは大体、頭にはいっているだろうし。しか
し、そこが僕には不満だった。CDを聴いただけでは何も
まだ分からないけども、落ち着きすぎてはいないかい?
 

 今風の演奏ってもっと、ハードな演奏になってもいいんじゃない?
特にこの曲は、さっきも書いたけども、いじくりまわされすぎちゃって
んだから、ヤンチャして良いだろ。1981年、何したってまだ若気の至りだよ。
指揮する人はまだ後、ウン十年するんだから。
ヤンチャしようぜ。

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2007年6月 6日 (水)

知らない人はたくさん…

  指揮者は毎年でてくる。これまでにも知らない指揮
者はいっぱいいる。名前は聴いたことあってもCDや実
演を聴いたことがなかったり、一部では名前が知られて
いるけどもCD化されていないため、結局マイナーで終
わってしまっていたり。アマチュアを多く振っている指
揮者がそれに当たることが多い。アマ奏者たちからは評
判が良く、プロオケを振ったりするけども、CDが出てい
ないため、誰それ?で、終わってしまうことがある。残
念なことだと思う。で、自分の場合はといえば、CD屋で
1.2時間ふらつき、いろいろと見る以外に本でどんなんが
いるんだろうと見ている。で、最近、見た本は「指揮者
列伝」というもの。副題に「世界の指揮者101人」とあ
り、古今東西の主だった指揮者の紹介本です。結構、知
っていると思っていたけど、知らない指揮者が出ていた
りして、新情報が! 的な感想でした。そんな中で一番
気になった指揮者がドュダメルというベネズエラの方。
1981年の生まれで、僕とほぼ同い年。気になって他にも
あたってみたら、ドイツ・グラモフォンと契約し、ベー
トーベンの交響曲5番と7番のCDを出しているらしい。
しかも、近々、マーラーの交響曲5番も出るみたいなん
ですね。オケはシモン・ボリバル・ユース・オーケスト
ラ・オブ・ベネズレラと長い名前。ユースとあるとおり、
若手のオケみたいです。正直、まだ聴いていないので、
なんともいえないのですが、いろいろと情報をまとめる
と、テンポ感や低弦の響かせ方がいいらしい。管楽器も、
名手がそろっている(でなきゃ、マーラーの5番なんて)。
ラトルに認められたか何かあったのではないかと、本を
見ていて思ったのですが。なんでしょう。ここは、やは
り聴かないといけないですねぇ。日本に来ることがあっ
たら、行かなくてはと思う日々です。CDを聴いてみたら、
必ずここに記載するので、こうご期待。

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2007年5月27日 (日)

求めるもの、求めないもの

指揮者チェリビダッケのCDを聴く度に感
じること。美しい音を求めてやまう、その音
が紡ぎだす音楽には、必ず一つの精神とも言
うべきものが宿っていた。しかし、それを求
めるあまりに彼は、音楽の持つ下品さや凶暴
性を全て削ってしまったように思えてならな
い。例えば、ベートーヴェンの交響曲3番「英
雄」。僕には物足りない。あまりに品が良すぎ
てしまう気がする。ワインをがぶ飲みして道
端でうずくまっているベートーベンの姿があ
ってもいいのではないか。いや、この音楽は、
ベートーベンが求めた姿を現しているのだか
らそのようなものは必要ないと思っている人
も多くいるだろう。でも、それは、音楽を縦
だけで見ていないだろうか。横の流れだって
ある。それこそ、必ず言われているような交
響曲「運命」の話はどうだろう。闘争から勝
利へ。1楽章から3楽章までの闘争と4楽章
で沸き起こる勝利。これは横の流れ、ストー
リー性だ。その流れの中には、高尚なものだ
けではなく、世俗的な世界があってもいいの
では。むしろそういったものがあってからこ
そ、カタルシスがあるのではと思う。ワグナ
ーも多分に用いた救済だってこういったもの
があると僕は考える。しかし、救われる前の
世界が美しい音で、かくもはかなく表現され
ると悲しくなる。というのも頭の中に浮かん
でいるのも事実だが。
 そういった音楽をベートーベンとは違う方
法で、近づいたのがチャイコフスキーだろう。
チェリビダッケの交響曲第4番はそれを遅い
テンポの中で、表現をしていく。2楽章での
クラリネットと対照的な3楽章での弦のピッ
ツ。そして現れる太陽のような4楽章。ベー
トーベンが作り上げたと言われるような交響
曲のテーゼに乗っかり、扱うテーマもそれこ
そ運命という似たような形になっているけど
も、そこはチャイコフスキー。ガチガチに固
めたものではなく、柔らかく人に訴えてくる。
それに言いくるめられてしまって納得できる
音楽とでもいえる。
 とは、言ってもこれは僕がチェリビダッケ
の演奏から受けた感想。例えばムラヴィンス
キーの演奏からだとまた違ったのが生まれる。
それはまた後日。

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2007年5月15日 (火)

音楽批評考察

 音楽批評は難しい。こんなブログでも、
ほぼ音楽のことばかり書いてきたけど未だ
に良く分からないのが現状だ。例えば文芸
批評ならいろいろな手法で作品を読み解い
ていく。例えば印象批評から始まってロシ
ア・フォルマリズム、現象学や構造主義、
ポスト構造主義まで、他にもたくさんある。
だけど、音楽に関してこういった主義流派
はあるのかなぁ…といつも思う。結局は、
印象批評から変わっていないのではないか
なぁと思うときも多々。なぜか。音楽なら
ではのことがそこにあるから。そう、楽譜。
仮にこれをテキストとした場合、それを批
評するのは誰か。指揮者だ。批評家、評論
家の人たちではない。これらの人は指揮者
の演奏を聴いて判断する。テキストと批評
家(聴き手)の間には指揮者というフィル
ターが存在してしまっている。

 なんで、こんなことを考えたかといえば、
先のシューマンだ。バーンスタインのドラ
マティックな演出を苦手だと宣言してしま
ったけど、では、バーンスタインが得意と
するマーラーの編曲したシューマンはどう
なんだ、ということでCDを買って聴いて
みた。ほんとはスコアを買えばいいのだろ
うけども、どこを見ても手に入らない。や
はり批評で食べている人たちは輸入して手
に入れているだろうか。それは置いといて、
シャイー指揮コンセルトヘボウ管弦楽団の
演奏のCDだけど、確かに違う。枝葉をば
っさりと切り、ダイナミクスとアクセント
などをはっきりとさせることで、メロディ
ラインを浮き上がらせている。と、いうこ
とまでは分かったけども、それ以上は…。
僕の耳はまだ、そこまで行っていないとい
うのも分かってしまった。

 僕がここで判断するべきものはいくつか
ある。シューマンの書いたものと比較して
どう感じたか。シューマンが求めていたも
のをマーラーは敷衍しているのか。マーラ
ーの音楽に見られるようなものに変わって
はいないか。だが、判断つかないものがあ
る。シャイーの指示だ。オーケストラにど
んな指示をだして、ダイナミクスをつけた
のか。あれは、マーラーの指示なのか。そ
れは分からない。

 先ほど、指揮者のフィルターを通してい
るというのはまさにここだ。しかし、ここ
でもまた問題。別の指揮者が同じスコアを
使うと同じ音楽がそこに発生するのか。答
えは否。トスカニーニとフルトヴェングラ
ーの運命を取り上げるまでもなく、違うも
のが出来上がる。僕が思う批評家像は、そ
ういった違いや特徴を端的に表現できるこ
と。ただ、その表現の仕方が印象批評では、
今までと変わらない。50年以上、同じこと
の繰り返し。だから、吉田秀和以降、批評
家が出てこないとか書かれてしまう。これ
はもちろん、批評家の怠慢であることは間
違いないけども、それ以上のことを誰も求
めなかったというのもあるのではないか。
吉田秀和の批評を僕は今でも読む。一番読
んでいる批評家だ。理論や作曲家について
もよく知っているし、演奏批評についても、
また、音楽から見た世間評もどれも味があ
る。

 最近、本が出た。渡辺裕著『考える耳 記
憶の場、批評の目』だ。毎日新聞で連載さ
れていたらしいが、僕は単行本になって知
った。これは音楽という立場から世間の見
るというコンセプトに書かれている。今だ
からこそこういった批評の仕方が生きてく
るんじゃないか、と思いつつ読んだ。読後
の感想。僕は間違っていなかった。

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2007年5月 8日 (火)

バーンスタインの音

 久々の更新です。前回、バーンスタインのシューマンの音が汚いと指摘し、書き終わったわった後も、ほんとにそうなのか、なんでそう感じたのかをずっと考えてきた。まだ結論は出ていないけど、今でも、いろんな考えから見ても汚いと思う。そのうち、あのときの自分の解釈に訂正を加えるときがあったとしたら、自分の耳がより良くなったと思えるようになりたい。

 なんで、汚いと感じたか。それについての説明が足りていないように思えるからこの場でしてみよう。最初の出だしの音は、音楽之友社から出ているスコアフィルハーモニア版では、全てAの音になっている。チューニングの時なぞに、オーボエが吹く音だけど、もちろん、音の高さは楽器によってさまざまでオクターブの違いはある。
だから、これを一斉にバーンと吹いたり弾いたりするだけでは、音楽が始まる前から寝ている人を起こすだけでしかない。もしバーンスタインが劇的な何かを狙っていたとしたらまた、それはそれなのかもしれないけども。他の指揮者、例えばチェリビダッケ(最近、面白い本が出ましたね。今日、触れられたら触れてみたいけどこの調子でいったら全く場所がなさそうなのでまたいつかにでも)の最近出たライブ版を聴くと、バランスが半端なく良いと思える。言葉がここでも足らなくて申し訳ないけども、まだそれしか言いたくない。バランスという点から考えれば、バーンスタイン版は、考慮していない。バイオリンから打楽器に至る全ての楽器が力強く鳴らしている。天下のウィーンフィルがそんなことをやっているのか、と自分の耳を疑い、しばらく考え続け、このブログやめようかとまで考えた末の結果だけども、僕にはそうやっているようにしか聴こえない。まぁ、それが僕の限界なんですね。しかし、そこはウィーンフィル。ちゃんとそこに意味を込めて、皆、同じ音なのに音楽を作っているとも感じられる。それが先ほど言った劇的。

 バーンスタインがシューマンの4つの交響曲に何を求めていたのか。まだ、全然分かっていないけども、あの人のモーツァルトやマーラーやベートーベンを聴く限り、やはりそこにドラマを作ろうとしているのではないか。クラシックジャーナル25号(書誌情報は右下に掲載)には、バーンスタインの特徴として「語る」ことを記述している(220~222ページ)。また、孫引きになるけども、222ページには『レナード・バーンスタイン』(ポール・マイヤーズ著 石原俊訳 アルファベータ社刊)の引用として「バーンスタインはその初期から、自分のすることは演劇的傾向のあることを認めて」とある。 やはり、このあたりから考えるに音楽を劇的に聴かせる、見せるというように考えるのが良いのではないかと思うのだ。だからこそ、マーラーのようなものを劇的に聴かせることが出来たのだろう。それと同じ手法をシューマンに持っていったのではないか。劇的というのは、感情の起伏を激しくという意味で考えている。喜怒哀楽をはっきりとさせるような。僕は、それが悪いと言いたいわけではないが、あまりにクドイように感じたのは事実だ。もっと、さらりとした触り心地が欲しかった。シューマンは、ただでさえ、ロマンチズムの香りが強いのに、それをより強調されると辟易してしまう。それを一言で、ちょっと反抗的に書けば音が汚い。最初からそう書けば良かったです。

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2007年4月 9日 (月)

ベト4とベト7

 前回、ベト7を落語のマクラのように使った
ため、今回はベト7について、ちらっと。ベト4
とベト7のカップリングが多いとも前回書いた
けども、なんでかというのを、考えつつ、本を
読んでいたら、示唆するものだけども記述が
あったので、紹介します。白水社という出版社
から「文庫クセジュ」という、なかなか専門的な
新書がでているのだけど、それの一冊
「オーケストラ」という本。アラン・ルヴィエという
フランス人の書いたものを訳したもの(本につい
ての詳細は右下で)で、まだ最後まで読み終わっ
てないです。なんでも、パリ音楽院の院長をして
いた(もしくはしている)方で、なかなか読み応え
があります。
 その中によれば、ベト4の四楽章「アレグロ・マ・
ノン・トロッポ」(快活に、しかしはなはだしくなく)は、
「こうした指示にもかかわらず、フィナーレは弦楽
器にとってはきわめて演奏がむずかしい。コン
トラバスも例外ではなく、他の弦楽器に匹敵する
名人芸が要求されている」とあります。こうした
「果てしない動き」がベト7に通じるものがあるといっ
ています。弦楽器だけではなくて、管楽器、特に
木管楽器にとってもかなり難しいもののようにも
思えるのだけど。例えばファゴットやクラリネット
なんかは。前、とあるプロオケで聴いたときは、
ファゴットのソロが終わるか終わらないかで、他
が入ってきてしまっていたし。指揮者のテンポに
ファゴットが着いてこられなかったのだけど、例え
ばカルロス・クライバーのCDでもそういったのを
聴くことが出来る。
 で、結局、ひとつのテーマをさまざまな楽器に
やらせ、延々とうねり続くのが、ベト7に通じるもの
があるとあらん・ルヴィエ院長先生はおっしゃって
いるのですね。
 そうかもしれない。でも、これは共通性という一つ
の意見です。ふたつの曲を照らし合わせてみると、
構造的に似ているものが多い。四楽章のテンポの
速さや「果てしない動き」はその一つだけども、それ
以外にも、一楽章では、最初はどちらもテンポは緩
やか。

(ベト4はアダージョ(ゆるやかに)ベト7はソステヌート
(各音符の長さを十分保って、テンポを少し押さえ気味に)

でも、途中から華々しく音楽が広がっていく。ベト4は
アレグロ・ヴィヴァーチェ、ベト7はヴィヴァーチェ。
ヴィヴァーチェは活発にという意味。
 こういった音楽の作り方は、ベートーベンよりも
前の時代からあったわけで、彼の手で作られた
世界ではありません。ルールの中で作った曲、
そういった点では教科書的かもしれないけども、
問題はその後です。ようは、よく見かける箱の中
は、とんでもない仕掛けばかりで、中と外があま
りにも違う。共通点はそういったところにもあります。
ベートーベンの外側の特徴はそういったところで、
内側のとんでもない仕掛け、ここでは触れること
はしませんが、楽器の使い方に他なりません。
 とある指揮者の方がいっていました。スコアを
勉強するのに一番、いいのはベートーベンだと。
聞き流してしまうようなところにも、いろいろとあ
るみたいです。

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2007年4月 4日 (水)

ベートーベン交響曲4番と5番

 今、ちまたではベートーベンの交響曲7番
がブームだ。発端は、某漫画、某ドラマ、
某アニメ。まどろっこしい言い方はやめよう。
そう、「のだめ」。僕はこの漫画は好きだ。さ
すがに雑誌で読んでいないけど、単行本は
全巻読んでいる。面白い。真面目に音楽やっ
ているのは、もちろんだが、それ以上に、自
分のやりたいことに対して、ストイックなまで
に求めている、求められているのがうらやま
しい。

 のっけから愚痴モードだけども、「のだめ」
のテーマ曲になりつつあるベートーベンの交
響曲7番、通称ベト7のCDを持っている人は、
カップリングが何になっているかを見て欲しい。
ベートーベンの交響曲4番(通称ベト4)じゃな
いですか?え?違う?そういうときもあります。
なんで、その組み合わせかといえば、なんで
か分からないのですが、多分、演奏時間の組
み合わせで一枚になるからと勝手に推測中…。
調べときます。

 で、そのベト4なのですが、この楽しみ方を考
えてみたいと思う。この曲は、聴いてみると意
外と面白い。運命やベト7のようにそこまで有名
なものではない。どちらかといえば、地味。でも、
聴きどころは満載。オーケストラの腕もしくは指
揮者の腕を調べる曲にもってこいです。いつか
ここで中途半端に論じたブラームスの「ハイドン
の主題による変奏曲」、略してハイヴァリに近い
ものがあるかもしれません。各パートにソロがあ
ったり、アンサンブルがうまくないとだめだったり、
メロディを管と弦で交互にしたり。

 聴いていてふと浮かんだのがベートーベンの交
響曲5番。通称運命でした。あの曲は有名すぎて
あくびがでちゃう最初のテーマだけでゴリをする。
どちらかといえば僕は好きな曲ではないです。いいよ、
もうって思ってしまう。あの曲は、あるパートがテーマを
やったら、他のパートはどう演奏するかという楽しみ
がない。そういったものとは、別の種類です。それ
こそ、曲に聴き手を考えさせる隙を全く作らせない。
ベートーベンと共犯者である指揮者とオケにグイグイ
連れて行かれちゃいます。そこが苦手なんですねぇ。

 そういったのと違い、ベト4はこの後、どうすんだ?と
いうのをちゃんと作ってくれている。しかも、テーマを
ヴァイオリンが弾いたら、その後、低弦がさりげなく
やっていたり、木管と弦の掛け合いあったり、弦が
「おいらはこう弾くけど、あなたはどうするファゴット
さんよぉ」的な4楽章があったりと、オケを聴く楽しみ
ってこういうところにあるんだなぁと。やっぱり個人技
と集団技があって、それぞれを楽しめる曲が面白い
と思う今日この頃でした。

つうか、ベト7を落語のマクラ的使用で、ベト7ファンの
皆様、すみません。僕もベト7代好きです。そのうち、触れます。

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2007年3月27日 (火)

ブラームスのホルン2

 前回、ブラームスのホルン使用方について、
言及してみたけども、今回もそれの続き。
先に、言うと結論はまだ出ていない。
 モーツァルトやベートーベンなどがホルンの曲を書いた際、
書きたいと思わせる人物が存在した。これは、
CDの解説にさえ、必ず書いてある。しかしながら、
ベートーベンのホルン協奏曲は、ない。
ホルンソナタは残してはいる。これを書いたとき、
ある特定の人物が頭にあったのは、
モーツァルトと同じ部類に入るだろう。
 モーツァルトやベートーベンといった古典派と
呼ばれる人々とシューマンやブラームスと言った
ロマン派と呼ばれる人々の間にはこうした深い溝が
あるのではないかというのが、僕の意見だ。
古典派というのは、自分たちのサークル内
(とはいってもかなり大きなものではなかった
と想像するけど)の人を頭に置きながら作っていた。
違う角度からだと、そういった人のために曲を作っていた。
 しかし、ロマン派の人々は、サークルとかではなく、
もちろん、念頭に置いた人もいただろうけども、
このメロディはこの楽器で演奏するが一番いい、
というような考えの下で作曲をしていた
のではないだろうか。シューマンやブラームスが
ホルンの曲を作る際、誰かを念頭にといったものを
なかなか見つけることが出来ない。もちろん、
シューマンがアダージョ&アレグロを作った際は、
彼自身がヴァルブホルンにかなり興味を持っていた
という事実はあるけども。では、ブラームスはどうだったか。
彼はピアノはプロ級だったらしいが、ホルンに関しても
かなりの腕を持っていたという。その楽器に対しての知識は
相当のものだっただろう。だからこそ、
ホルントリオが作れたのだといえる。でも、それだけだろうか。
ブラームスがホルンに共感したものがあったのではないか。
それが前回からの僕の主題だ。
 いまだにそれは見つけられていない。ただ注目している点は、
ホルントリオの三楽章が、彼の母親にささげられたものということ。
ホルンをすすめたのはもしや母親ではないのか。
そう思って調べてみたけども、そういったことを書いた本には
まだめぐり合っていない。それ以外に思いつくのは何か。
といえば、シューマンの存在。ブラームスはシューマンを
心底尊敬していた。これもCDの解説やちょっとした本を
手に取れば書いてある。しかし、どこまで、
どんなふうに尊敬していたのか。ブラームスは
「シューマンに教わったのはチェスくらい」
とか言っていたらしいけども、作られた音楽には
シューマンと思われるような箇所がかなりある。
専門書を読んでもらえれば一番分かりやすい
(例えば春秋社刊 前田昭雄著シューマニアーナ)。
スコアが手元になく、全く直感的なことで申し訳ないけども、
例えばピアノ協奏曲第2番の4楽章なども、
シューマンの「子供の情景」に出てきそうな可愛らしげな、
童話的なメロディが存在するのも確かだ。
 また、袋小路に入って閉まったのかな・・・。今日はここまで。

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2007年3月19日 (月)

ブラームスのホルン

 ブラームスはホルン三重奏をヴァルトホルン、
いわゆるナチュラルホルンを念頭して書いた。
しかし、ブラームスの師匠筋にあたるシューマンは
ヴァルブホルン(今使われている原型になったもの
といえばよいのかな)のために作曲している。
こういった話題は何度も話され、研究されてきた。
でも、まだ、解決されていない。ここまできてしまうと
解決は無理じゃないかと思う。僕自身、それでいい。
なんでも、解決されてしまうと、そのときは良い、
巣晴らしく良いけども、その後の楽しみがなくなってしまう。
前回のを読まれた方は分かると思うけど、
僕は言うまでもなく、夢想家だ。英語にするとロマンチスト。
はずかしいですね、妄想家にしといてください。
妄想の英語はわかりません。
 最近、いろいろとそのなぞに迫ろうと文献に
あたっているけども、いまいち、答えが出てこない。
本に書かれているのかもしれないけども、納得できない。
ブラームスは、新古典派と呼ばれるような
懐古主義的なところがあった。懐古といったら失礼か。
師匠やその上を尊重し、その流れに自分を
当てはめるところがあった。それは、間違いない。
そうでなければ、パッサカリアなんて手法を使うとは
思わないし、ホルンの使い方にしても、倍音だけで、
終わることはなかった。そう、特に交響曲をやる場合、
あそこまで音が少ないのはあの時代では珍しい。
それでも、モーツァルトやベートーヴェンと違った
人間らしい音楽が出来るのはまた、才能以外何者でもないのは確か。
しかし、彼はその師匠筋とは違った音楽を確実に作り上げた。
例え、それが師匠筋の模倣だったとしても。

 人間的音楽というのは、ようはロマン派に他ならない。
喜怒哀楽を越えようとする古典派と違い、
人の感情をそのまま、音楽にしようとしている。
つまり、どんなにブラームスが昔を懐かしがっていたとしても、
作られる音楽が昔のものではなく、現代(当時の)音楽だったのだ。
となると、なぜにヴァルトホルンにこだわったのだろう。
他にあるんじゃないとかというのが、僕の意見。
浮かんできてはいるけども、まだ精査が必要なんで、
今日はここまで。

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2007年3月18日 (日)

好きな和音

 音楽の中にある特定の音に反応することがあったりしたことありませんか。僕は、あるんです。いつものように個人的な話になってしまいますが、一番、反応するのは、チャイコフスキーの交響曲5番の2楽章。再現部といっていいのか、わからないのですが、2楽章で、ホルンが吹くメロディをチェロがやる箇所。裏でオーボエが絡まり、そのあとホルンが加わります。そのホルンのすぐ、後に木管+ホルンで和音を奏でます。その瞬間、一気に音楽が広がっていく感じがなんとも好きなんです。

 この交響曲の2楽章は常々、美女と野獣の音楽みたいだなと思っているですけど、その話にあわせると、その箇所は、野獣の魔法が解けて、美女と美男子の高貴な踊りのように聴こえてくるんですね。たぶん、魔法が解けていると分かるのは美女だけとか、そんな幻想の世界があるように思えてなりません。

 最初のホルンのメロディは、確かに美しいです。僕も大好きなメロディです。あれをやるためにホルンを始めても損は決してないと思います。でも、燦然と輝くメロディではないんです。ある意味、独白的なところがあります。この前、美女と道でばったり出会ってさ的な、ことをロウソクに向かってつぶやいているような、寂しさがあると思うんです。で、第一の波乱がやってくる。その美女が誰かにさらわれそうになるような。セオリーどおりなら魔女ですかね。魔女にしちゃいましょ。魔女にさらわれちゃいそうになる。で、また偶然に野獣が助けます。ありがとう、野獣さん、私と一緒に踊りましょ。そんな簡単に話はなるとは思わないですが、とりあえず、踊ります。あ、でももちろん、踊る前には、この交響曲の運命の動機が流れます。流れないと流れ的にちょっとおかしくなっちゃいますからね。で、とりあえず、鳴って踊り。吟遊詩人が、ハープとかなんかをポロンポロンとやっているような音が聴こえてきて、美女と野獣の華麗な踊り。最初は、なかなかうまく踊れません。そりゃ、野獣だし。踊れちゃうほうが不思議です。でも、オーボエがうまくのせてくれる。その後のホルンが、より一層の雰囲気を作る。その瞬間、光とともに、野獣が美男子に戻るのです。

 そんな物語をチャイコフスキーは交響曲5番にこめていたそうな。めでたし、めでたし。

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マナーってさ

 先日の朝日新聞夕刊にこんな記事がでていた。「キレる客対策、業界本腰 クラシック演奏会でトラブル急増http://www.asahi.com/culture/music/TKY200703160235.html」。

 確かに音が気になったりすることは僕もある。聴いている最中にとなりの人がプログラムをめくり始めるとか、近くでしゃべり始めたり。このご時世、演奏中はしゃべらないというのがマナーだから、それはさすがにやめていただきたいけども。でも、そういったのを言い始めたらキリがない。新しい客層が増えることは、喜ばしいことではあることだし、そういった人たちを快く迎えた方が、お互いプラスになることは間違いないだろう。でも、すでに出来上がっているマナー、この場合だと世界(のホール)のルールが特別だとは思わない。人がしゃべっている最中に、話を聞くというのは小学生ときに散々、先生に言われなかったのだろうか。今、人が話している最中にしゃべっても誰にも怒られない、寝ても害がないのは、存在の価値がマイナスの国会議員ぐらい(必要があるんだろか。そのうち、うす汚い存在に思われちゃうよ)。あの人たちっている価値ほんとないですよね。見てるだけで・・・だし。ま、それは考えるだけで虫酸が走るので選挙で遠慮なく落としましょう。

 それはさておき、音響がいいホールというのは、それぞれの楽器の音がよく聞こえてくるのは、もちろん、そのほかの雑音が聞こえてきてしまうのはしょうがないこと。そこを頭に入れておかないと、せっかくの楽しみが半減かそれ以下になってしまうことだってありうる。

 でも、一番のマナー違反って拍手のタイミングのような気もするけど。例えばチャイコフスキー交響曲6番「悲愴」。これなんか代表的ですよね。フライングの。3楽章が終わった後に大体拍手がある。確かに他の曲ってにぎやかに終わっていくけどねぇ。あのぅ、4楽章がまだあるんですけど、みたいな。曲の途中で拍手があったというのは、意外にもベルリオーズの「幻想交響曲」もそうだった。これは、某音楽大学の演奏会を上野の某音楽ホールで聴いたときだったけども。4楽章が終わった後で、さぁ、ワルプルギスじゃ、とドキドキしていたらきちゃいましたね。見た感じ、音大生の親御さんばかりのようでしたけど、まさか子供がやっている音楽を知らない…?しょせん、そんなもんですよねぇ。お金あるんだから楽器でもやらせて、うち(家)に箔でもつけましょ、ぐらいの人たちしかいないんですから。不思議な国、ジャポン。

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2007年3月 1日 (木)

チラシ

Photo  久々の更新というか書き込み。本を買った話。本といってもクラシックに関係するけど、ちょっと関係がない話。でも、興味がある人は意外に多いんじゃないかなと思えるような・・・長くなりそうだから、結論から先に言ってしまえば、本というのは、タイトルにあるように、チラシの本である。クラシックの演奏会に行ったことのある人はご存知だろう。プロオケの演奏会の場合、入り口の前にやすっぽいビニール袋を持った何人かの若い人がいて、その袋を受け取ったらチラシばかりだったというケースがきっとおありに違いない。僕もそう。あまりの量の多さに最近はもらわないようにしている。また、アマオケの演奏会に行った際には、プログラムにまた、分厚いチラシの束が挟まっているのもきっと知っているだろう。僕は断れないから家に持ち帰るか、さっと友人の鞄にいれたり(これは内緒です。ばればれだけど)している。
 で、今日たまたま買った本はそのチラシについて書いた本。年代順に並べられてて、まだこのころはこの人生きてたんだとか、フォントが古いなぁとか、ふむふむと読みふけってしまった。どれも一緒だろうと思っていた人間としては、こんな見方があったのかと驚いたというのが正直なところ。
 チラシ、いわゆる広告というのは(ここでは演奏会の話に限るけど)、やる演目対して、第1印象を作るものだと僕は思う。だから、非常に大切なものなのだと気がついた。クラシック音楽というとどれも基本的には同じイメージがわいてくるだろうけど、そのイメージをどう変えさせるか、どう深く掘り下げるかなんて役割がチラシにはあるわけで。そこで新しく作られたイメージと同じかもしくは正反対の演奏を聴くという楽しみが生まれてくるわけです。
 まだ、ふか~く読んでないんで、こんなことしか考えられないけども、この本はアマオケで広報を担当している方に特にお勧め。チラシを作る際に必ず参考になること間違いないです。チラシは間違いなくプロのデザイナーによって作られているし、意図するものが見えてきます。
 つうか、画像が横になってる…。どうしたら縦になるんだろう。。

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2007年1月21日 (日)

アマオケと指揮者

 昨日、とあるアマチュアオケの演奏会に行ってきた。自宅からかなり離れたところだったが、知り合いの方が乗っていて、また、別の個人的な理由もあり小旅行も兼ねた。プログラムはモーツァルト中心で、プロの奏者による協奏曲も入っていた。

 前プロはコジ・ファン・トッテ序曲。緊張が伝わってくる演奏。小さくまとまってしまった。各奏者の技術は高いのにもったいないなぁというのが正直なところ。カメラのフラッシュが何度もたかれ、集中できなかったのが残念。
 中プロ1はピアノ協奏曲24番。ピアノはロシア出身のプロ。パンフレットによれば、評論家の吉田秀和氏が「若き日のホロヴィッツ思った」らしい。あまりピアノに詳しくはないので、なんとも言えないけども、なぜか本領を発揮しているようには思えなかった。しばらく聴いてはっきりした。オケの調子に合わせているのだ。この曲でわかったのだが、指揮者が駄目だった。曲が間延びし、ただ、伴奏に徹するわけでもなく、ピアノと各楽器の競演といったスリルもなく。どういった指示をだしていたのかが問題だ。指揮者のジョージ・セルのように、ピアニストが弾くのに最高の環境を提供することもなく、ワルターのように、各楽器を歌わせ、ソロ楽器に花を添えることもない。ピアニストには、指揮者が求めているものが伝わってこなかったのではないだろうか。
 吉田秀和氏の名前を出したので、氏の書いたモーツァルトのピアノ協奏曲について引用してみよう。

  モーツァルトのピアノ・コンチェルトでは、ピアノは名人芸の発揮のためにあるのでは
 なくて、管弦楽に相対し、一つに組みあって、それまでの音楽の歴史にかつてなかった
 一つの新しい音響の殿堂をつくりあげたのである。ピアノは全体の中の一員なのだ。
                               (「モーツァルトのコンチェルト」より)

 今回の指揮者はこれの反面教師になってしまった。テンポの問題。何の楽器を聴かせるのかという問題。さまざまな問題が山積みになっている。それは、休憩を挟んでのハイドンのトランペット協奏曲にも言える。ソリストはまたロシア出身のプロ。これまたパンフレット掲載の経歴を見ると厳しい練習でありえないアンサンブルを作り上げた指揮者のいたオケに入団し、後に首席奏者になったという。奏者の調子がよろしくなかったのは、吹いているときの様子で分かる。しかし、無駄に間延びしている音楽にあわせるほうがつらいというものだろう。どうしても、自分には、この指揮者の演奏が合わなかった。結論から言えば、それだけだが、なんでそうなのかと必死に考えている。間延びという問題だけでは済まされない何かがあるのだ。

 ここで一つ申し上げたいのは、オーケストラ、特にアマチュアの場合、技術よりも指揮者の力量で全てが変わってしまう。だからオケが悪いのでは、ということはまず問題にならない。プロオケなら、指揮者に対して、あんたはそう振るけど、こっちはそんな演奏法はないんだと言えるが、アマオケはまず言えない。プロオケがそういう場合、そういった伝統、流れでやってきているからというのもある。アマオケにそういったものはまずない。逆に言えば、指揮者のやりたいように出来る可能性が一番高いのはアマオケになる。歌わせ方ひとつにとってもこうやって欲しいといえば奏者たちはついてくる。プロの指揮者にとっては遊びでも、アマオケにとってはそれが、音楽していると思え、楽しく出来るからだ。だからこそ、プロの指揮者は抽象的だが間違ったことを教えてはいけない。期待の星をつぶすことにだってなる可能性がある。

 もちろん、オケだって歌い方の勉強をCDで聴くなり、演奏会に行くなりしてしなくてはならない。音楽のつながりを知らなくてはならない。例えば、ホルンがホール中に響き渡る音で吹いたら、それに続くチェロも同じように音の渦を作らなくてはつながりがそこで終わってしまう。そういったものは言われるのを待つだけでなく、楽譜を見るなりして、ここはこうすると頭に入れておくべきだ。ただ楽器をやるだけでは、それ以上得るものは何もなく、時間の無駄だとわざわざ申し上げなくてはいけない。
 しかし、それ以上の専門的な構造などはやはり指揮者の指導が必要になる。必要というよりもそれを一番、アマオケ奏者たちは求めている。ただのお小遣い稼ぎの場はもうなくなったと思うしかない。では私にとって、アマオケの演奏会に求めるもの。それは、音楽であり、指揮者がどんな作り方をし、楽しませてくれるか、ということだ。そこには技術以上のものがある。

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2007年1月20日 (土)

前回の点けたしプラスアルファ

 さて、前回、楽譜の版について、知っていることを羅列してみたけども、良い足りないことがいくつか。。なんで、さまざまな版が出てしまうかという点で、作曲者自身の責任もあるということだ。悪筆だった場合、それが意図したのと違うのになってしまうことが多々あったのではないかと思う。自分自身も経験があるし、読んでくれている方にもあると思う。今ならこうして、パソコンでキーボードを叩いていれば、読める字が浮かんでくるけども、何度も繰り返してしまうけど、当時はそうではなかった。こんな機械はなかったのだから。
あと、もう一つ。現在、指揮者が版に忠実に指揮をしているかという点。これは残念ながら、というべきかそうではないと言える。楽譜というのは、完全なものではなく、曲のあらすじが書かれているものと思えば納得いただけるのではないだろうか。例えば、童話赤ズキンちゃんは花畑で、狼に出会うけども、そこに何の花が咲いていたのか。そんな問いをいろんな人にしてみれば、さまざまな答えが返ってくると思う。パンジーだったりコスモスだったり。そもそも話に季節のことは出てこない。狼がお腹を空かせてでてくるのだから、春ではないかと思えなくもないが、それは私個人の見解であって、世界共通のものではない。そんなわけで、楽譜に書かれていないことを音楽家は探している。もちろん、書かれていることを前提に、となるが。こういった論議は、昔から行われてる。今に始まったことではなく、答えも永遠に出ないだろう。作曲家は死んでしまっているし、モーツァルトやベートーベン自身が録音したレコードやCDはないから、確認することは出来ない。学者や指揮者が自身で研究をして、こうだ!って演奏会で示すしか出来ない。それは、流行となって世界を駆け巡り、消えていってしまう。古楽器のブームにしろ、その前の音楽性に乏しいけど技術がある演奏と音楽性が豊かだけど技術がない演奏どちらがすばらしいかなんて、議論のように。

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2007年1月17日 (水)

楽譜についてのエトセトラ

 前回、前々回と同じ指揮者でも、楽しみ方は違うというのをハシリだけ書いてみたけど
も、ようは、そうやって違いを見つけて楽しむ、もしくは遊ぶということが出来るのも、クラ
シックの楽しみに一つだと思います。ちょっと視点を変えてみれば、同じオケだけど違う
指揮者で楽しむなんてのも出来るわけで。また、違う指揮者、違うオケで比べて楽しむ
なんてのもあります。こういったのを味のしめかたは、落語に似ているらしいです。
といっていたのは、マンガ「のだめカンタービレ」でおなじみのN響オーボエ奏者の
茂木さん。さんをつけてみたけども、全く面識ありません。N響の演奏会で、
ライトに当たっているのを、暗がりの座席から見ただけです。
 あの方の本なんかちらちらと立ち読み(買う価値あるのですが、マニーが…)をすると、
へぇ、とかほぉといったことが多くて楽しいのですが、話を元に戻して、落語に似ていると
いうそのココロは、同じ題材でもやる人(演奏する人)によって変わるということなんで
すね。確かに。分かっていたけど、そうやってうまく表現されるとうまいなぁと、文章を
書く際にも参考になる。ま、テレビでおっしゃっていたのですけど、たぶん、本にも書か
れているだろうな(未確認)。

 でも、指揮者やオケだけではないんです、違いというのは。もう一つ、気をつけてみる
と面白いもの。それは楽譜。どれも同じでしょーなんていったら大マツガイ。各出版社に
よって微妙に、時にはかなり違ってきます。同じ曲なのになんで?と思われた方。大学
や高校、中学の時、試験前に友達のノートを借りたことありますか?それをどうされた
でしょうか。コンビニでコピーですかね。私は、そんなお金がなかったため書き写しを…、
まぁ、それはいいのですが、いわゆる作曲家が書いた原本は当時、一つしかありません。
しかも、ベートーヴェンやモーツァルトといった時代にはフジゼロッ○スやキャ○ンなんて
いう会社もなかったわけで、コピー機がなければ、お金がなかった私のように皆さん、手
書きで、印刷装置に移して、製本化したわけです。当時、そんな装置を持っていたからお
金はあったのでしょうけども。ともかく、そこで初版が出来上がりました。しかし、ここで問
題が発生するわけです。手書きで写す人が、あれ?これおかしくないかい?しょうがねぇ
なぁ、おいらが直しちょるけ。と、勝手に書き換えてしまうこともあり、また初版が出た後
で、じょじょにそれが忘れられ、いろんな人が書き加えた楽譜が出版されたことも多々あり
ました。そんなわけで、作曲者が書いたものをそのままの状態で出版されている楽譜というのが、今ない、といったら嘘になりますが、意外と少ないんではないかという状態です。
 例えばベートーヴェン。つい最近、といっても数年前ですが、ベーレンライター版というの
が出版されました。ベーレンライターというのは出版社の名前ですが、ジョナサン・デル・マ
ーという音楽学者が、いろんなところで流布している楽譜や音楽史などを検討して、ベート
ーベンが書いた楽譜をマー先生なりに再現したものです。
 と、まぁ、いろいろあるのですけども、なんでそういったものが生まれるのかというのには
書き写しという問題のほかにもうひとつ、あります。それは、習慣。さきほどのベートーベン
の後には、ロマン派という時代がきますが、そのロマン派の習慣を勝手に書き加えて、演
奏されたりして、今日に至っています。ベートーベンの時代の習慣は、あまりにも当たり前
すぎて書かれてなかったというのもあるみたいですが。ま、だからそこに勝手に付け加え
ることも出来たのですね。それが良いか悪いかは別としても。

 ま、そんなこんなで楽譜にはいろんな版があるというのを書いてみました。CDを買ったと
き、注意深く見てください。たまに書いてあることがあります。人目で分かるのはブルック
ナー。あの方は、一生(といっていいでしょう)、自分に自信の持てない人だったらしいで
す。だから、せっかく曲を作っても、友人や弟子たちが書き直したりしてしまった(悪意はな
かったとおもうのですけど)。まぁ、大体が不評だったというのもありますけど。で、ノヴァー
ク版、ハース版、シャルク版とかレーヴェ版とかあるわけです。それにしても、そこまで面
倒見てもらえるというか世話焼きな友人や弟子というのは一体。。やはり持つべきものは
きちんとした…なんですかね。

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2006年12月27日 (水)

ハイドンの主題による変奏曲から その2

明けましておめでとうございます。しばらく空いてしまいましたが、今年も不定期で書いていきます。よろしくお願いいたします。

 前回、ベルリンフィルとウィーンフィルのかなり大雑把な違いについて書いてみました。で、不思議に思った方もいるかもしれません。あれ?指揮者は同じでしょ。そう、同じなんです。だから、ここで前回のタブーが出てくるのです。再生方法というね。やっぱりいいスピーカーで聴けば、音もいいのが聴ける。また録音状態というのも出てきます。音を録った環境が違えば、感じも変わる。それを楽しんでみるというのも一つだとは思いますが。

 このブラームス作曲のハイバリについて、以前、ジャズのアドリブのようなものがあるというような書き方をしましたが、厳密にいえば、全て楽譜で用意されています。即興ではないので、そこはお間違いなく。
 いろんなバリエーションがある中で、好きな曲を見つけてしまうのも、良いかもしれません。僕は終曲が好きです。
 先ほどはベルリンとウィーンの違いについてだったのですが、今度は、共通点。これは二つのオケに限らず、他にほとんどのオケも同様だと思われますが、低音、いわゆるベースの音に、それぞれの音を重ねていきます。特にフルトヴェングラーの時代のオケは低音が良く響く。耳にした感じがどっしりとしていて、安定感があるように思えます。なぜ、良く響くかと言えば、上手だからなのはもちろんのこと、主導権を握っているからです。ヴァイオリンの一番前にいるコンサートマスターではないの?と思った方。正解です。演奏する場合、コンサートマスターの弓に合わせることになっています。しかし、楽器の構造上、同時に音を出したい場合、ベースのコントラバスが先に弾かなくてはいかなくなります。そこで、コンサートマスターとコントラバスのリーダーがアイコンタクトなりをして、うまく出すようにしているのです。
 で、それを当時のベルリンやウィーンのオケは、とんでもなくうまくやってました。このハイバリに関して言えば、どちらもその持ち味を存分に出しています。しかも、コンサートマスターとコントラバスの二人だけではなく、他の楽器のコンビプレイも聴くことが出来ます。前回、話した主題の部分もそう。オーボエ、ファゴット、コントラファゴット、ホルン、チェロ、コントラバスという7つの楽器のコンビプレイ。いっせいに同じ大きさの音を出しているのでは、音楽が作れません。誰がどんな仕事をするのか、というのが分かっていなくてはなりません。で、先ほどの違いが生まれてくるのです。でも、求めているのは同じ。違いが共通点という不思議な味わいがそこにあります。

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2006年12月17日 (日)

初めてCDを買うとき

 さて、前回、前々回とこぼした独り言から元に戻して、楽しみ方の続きを。これまで、シチュエーションとか、リズムとか、スコアといった内容で繰り広げてきましたが、今回は、CDの選び方について、ちょっとしたテクニックを書いてみたいと思います。これは前回も書いたけども、例えばモーツァルトがいい、という情報がきて、聴いてみたいと思ったときに棚に行くと、唖然とするくらいのCDが並んでいます。そんなとき、ガイドブックなどがあったら、定盤といわれるCDが見つけやすいとおもうのだけど、そんなものふだん、持ち歩くことはなかなかない。と、なると途方にくれてしまうだけです。そんなときに、知っていて得するのが今回、紹介するテクニック。有名な曲に限られてしまうことが多いですけどね。

1棚を見渡してみます。そうすると、まず気がつくこと。背が日本語のと、外国語のに分けられている。つまり、国内盤と輸入盤があるわけですね。
2輸入盤を1枚ずつ読んでいると国内盤と同じ指揮者のCDがあることが分かってきます。で、はっと国内盤を見ると、体裁が違うのに同じ指揮者のがあることも分かったりします。指揮者によっては何度も録音していたりするので、まぁ、多々あるんですが。特にカラヤンとかメジャーな指揮者は。
3チェックするのが録音年代。裏に書いてあることが多いです。これが同じで、レーベルも同じ。でも、値段が違うなんてことがあります。

 そういったCDは大体定盤と呼ばれるものです。売れているから再プレスして売り出す。その際、安くする。なんて手法です。本で、いったら文庫みたいなもの。一応、ハードカバーで売れたものが文庫に入るような仕組みなんです。まぁ、このご時世、だいぶ変わってきてはいるらしいですが。
 それをとりあえず買って聴いてみてください。で、なんかイメージと遭わない、とかなんかおかしいなと思ったらさっさと聴くのをやめる。もったいないとお思いになるかもしれませんが、潔くあきらめて、棚にしまいましょう。あなたが悪いのではなく、そのCDが悪いのです。それでもその曲が気になった場合は、またCD屋に行って、違う指揮者のCDを買うことをお勧めします。聞き比べをしてみてください。前に買ったやつはここがおかしいんだ、とかこっちのはこれが良いとかなんとなくはっきりしてきたら、もう周りに言いふらしまくりましよう。それだけで見る目が変わりますよ。

 他にはひいきの指揮者を作ってみるとか、もちろん、ひいきのオケも。でも、クラシックを聴き始めの方にはあまりお勧めはしません。偏ってしまって、せっかく他にもいいのがあるのに聞き逃してしまうことが必ずあるからです。ま、これに関してはまた後日。
 次回は、聞き比べの楽しみ方をちょっと検証してみます。同じ指揮者だけど、オケが違うというヴァージョンです。お楽しみに。

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2006年12月11日 (月)

クラシック音楽を身近に

中断して、独白

 これまで、しばらく抽象的といえば、抽象的なことを書いてきたけども、結局、僕がこのブログを使って、伝えたいなと思っているのは、生活にクラシック音楽をということだ。僕は、前にも書いたと思うけど、大学からオーケストラに参加して、クラシック音楽の楽しさを知ろうとそれなりに努力してきた。努力というかCDを聴きまくってきただけだけど。それで知ったことは、クラシック音楽にも、ジャンルがいろいろとあるということだ。ジャンルといっても、室内楽とか器楽曲とか、そういったものではなく、クラシックの中にも、それこそ、ロックやヒップホップ、テクノと分けられることが出来るということ。まぁ、でもそれだって考えてみれば(考えなくても?)当たり前のことで、今から100年から200年前に、ヨーロッパで流行った音楽を全てクラシック音楽としてしまっているのだから。

 それに、音楽で残されているのは、楽譜という中途半端なものだけ。だからこそ、基本的には同じ楽譜を使っているのに、いろいろな指揮者、演奏家たちがいて、同じ曲のCDがそれこそ何十枚とある。ようは、それだけ考え方があるといえる。同じ指揮者でも、録音した年代が違えば全く別物になっていることだって大いにある。ある意味、些細なことかもしれないけど、それこそ違いを楽しめるのがクラシック音楽ではないかなと思う。

 僕は楽器を練習するに当たってCDを聴いてきた。だから純粋に音楽を楽しむというよりは、この人は、この楽器、具体的に言えばホルンだけども、どう扱っているのかを知りたいというのが一番にあった。今でもそれは変わらない。でも、それが僕の出発点だったわけで、それを否定したいとは全く思わないし、今後もするつもりは毛頭ない。逆にホルンがない曲というのにとても弱い。弦楽四重奏とかピアノ曲とか。そういったものをまだ楽しめる段階になっていないのも事実だ。これまで書いてきたのは、読んでくれた人への提案とともに、自分への提案でもあった。

 クラシック音楽の人気が今、高まってきているけど、それとても嬉しいこと。でも、今のクラシックCDの売り場に初めて来た人はびっくりするのではないか。同じ曲に違う人たちがいろいろと出している。洋楽でもJ-popでもまずありえないだろう。私はただモーツァルトが聴きたいだけなんだけど、といわれてもこんだけあると迷ってしまう。そんな時は、知っている指揮者、演奏家のCDを買おう、なんていうけども、そもそも知らないし、となったらはてさてどうするか。そんなときに少しでも手伝えたらと思う。確かに僕の知識は偏りがある。それは致し方ない。自分の知識にないものなら、詳しい人間に聞く。わからないことは調べる、人に聞くというのを教えてもらったのな、とだらだらと書きながら思い起こした。

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2006年12月 4日 (月)

前回に引き続き

 前回に引き続き、クラシック音楽の楽しみ方を。もちろん、人それぞれだし、自分だって、なんでも知っているわけではないから、間違った情報を掲載しているかもしれないけども、そんな見方もあるのかなぐらいに、思ってもらえるとありがたい話。

 前回は、自分の置かれているシチュエーションから曲を楽しんでみてはいかが、ということを載せた。今回は、実は他にも楽しみ方はあるのだよ、というのを紹介してみたいと思う。また、脱線ばっかりにならないように気をつけます。

 クラシック音楽というのは、西洋の伝統音楽なわけで、日本ではあまり考えられないようなリズムや、表現なんかも耳にすることが出来ます。有名なところでいくと、3拍子。ワルツなんかで使われるリズムだけども、日本にはほとんどないリズムのひとつ。ほとんどいうのは、実際にはあるという裏返しだけども、それというのが「なんまいだぁ、なんまいだぁ」というお坊さんが唱えるもの。念仏というやつですな。「なんまいだぁ」というのは、何を言っているのかさっぱりという方にお教えします。「南無阿弥陀仏」なんですね。阿弥陀仏に帰依しますという意味らしいです。南無というのが帰依しますという意味らしい。だから、「南無法蓮華経」という日蓮宗のお題目(念仏ではないらしいです)は、法華経(というお経)に帰依しますよという意味になります。はい、また脱線しました。

 話を元に戻すと、クラシック音楽を聴くと他の文化についても、耳にすることが出来るということになります。だから、なんだよとおっしゃる方。ちょいとお待ちを。他の文化と大きく出てみたけども、文化というのは言葉という単語に置き換えることも可能です。言葉というのは、ひとつのリズムで出来ているので、そのリズムがわかると、聞き取りが簡単になるというメリットがあるのです。リズムがないと言われる日本語にだって、リズムはあります。いい文章には、その呼吸が分かりやすいというのがありますが、まさにそれですね。どこで、息をすればいいのか、読んでいるだけで分かってくる。それが日本語のリズムです。この文章が読みにくいとすれば、ひとえに僕が書く文章が悪い。悪文ってことになります。ごめんなさい。

 で、また話を元に戻そうと努力します。なんでしたっけ?そう、クラシック音楽の楽しみ方。リズムという点から、聴いてみると、前回のロマン派だけでなく、古典派の方々の音楽も楽しめるようになります。時代がさかのぼるにつれ、リズムが複雑化してきてるからというのもあるのですが、それこそ、楽器だって今、吹奏楽で使われているような楽器が誕生する前ですから、どうしても限界というのがあります。もちろん、いまでもありますが、今以上に限界値は浅い。となると、さまざまなリズムやメロディなんかで勝負してきているのです。特に、最近、ひっぱりだこらしいベートーベンの交響曲第7番は、リズムだけで出来ているといっても過言ではありません。あの方はメロディを作るのが苦手だったなんてのも、耳にしますが、とはいっても、ひとつ出来たメロディをいろんな楽器や、リズムを少し変えただけで、あんだけの曲を作れるのだから、やっぱりなんか違うのでしょう。交響曲第7番に限らず、交響曲第5番なんて、ダダダダーンというのだけで、3,40分の曲を作ってしまうんだから、やっぱりすごいもんです。

 今回は、リズムを楽しんでみる。というのが、テーマでした。実際、クラシック音楽をやっている人たちの、リスニング力は高いみたいです。他にも理由はあるらしいのですけど。勉強して疲れてみたらクラシック音楽を聴いて、心を安らげつつ、さりげなくいろんなリズムを楽しんでみてはいかがでしょうか。

 いかんですな。いつも、テーマがずれていく。他にもこんなの音楽の遊び方ありますよ、というのをいくつも考えていたのだけど、こんだけ書いてしまったら読むほうも疲れますよね。また次回にします。予告は…やめとこ。ではでは。

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2006年11月30日 (木)

初めてクラシック聴くときは。

 それにしても、クラシック音楽って不思議。ベートーベンにしても、モーツァルトにしても、歌曲やオペラ以外では、ほとんどの場合、歌詞がついていない。ただ、キレイな曲だなぁとか、迫力あるなぁとか心に沁みちゃうねぇと感じさせるのが中心になっている。キレイなものをキレイだといって何が悪いとお思いの方もいるかもしれないけど、では、そのキレイの基準ってなんですか?と聴かれてしまうと、ちょっと意見に困ってしまうのではないだろうか。でも、それでいいのです。キレイなものはキレイ。でも、残念なことにそれに共感できない人もいる。だって、人は皆違うわけですからね。また、それも良しとしなくてはいけません。

 僕が、聴き始めのころにしていたのは(妄想とかいわれたけど)、曲に勝手に物語とかテーマを作ってしまうことだった。作曲家にもそれに向き不向きがいて、例えばブラームスやシューマンが前者。反対に不向きの作曲家は、モーツァルト、ハイドン、ベートーベン。なんでかといえば、ちょっと薀蓄になってしまうけども、ブラームスやシューマンの目指したものがまさに、曲に感情をつけようとしたこと。派閥に名前をつけるとしたらロマン派。モーツァルトたちの目指していたものは、感情を超越した音楽を作ること。寂しいときでも楽しいときでも聴ける音楽。派閥の名前は古典派。まぁ、異論反論はたくさんあると思うけども、僕が調べたものを、一言で、大雑把にまとめてしまえばこんな感じになる。だから、ちょっとしんみりした曲を聴きたいなぁと言うときは、例えばブラームスの交響曲第3番3楽章を聴いてみればいい、とロマン派の作曲家は勧めやすい。では、古典派の方々はどうお勧めするか。それは、ロマン派の音楽をたっぷりと聴いた方にお勧めをするのが一番なのではないか。

 理由として、ロマン派と古典派といえば、ロマン派の方が今の時代に近いというのがある。また、ロマン派の方々は、古典派の人々の影響を受けて、分かりやすく書いたというのも挙げられる。なんで、分かりやすく書いたのか、といえば聴いている人々の地位が変わったから。クラシック音楽はある種のゲームだったのです。貴族たち楽しんでいた訳ですが。それが、貴族出身でない人々も、こういったものに興味を持ってきた。また、作曲家もそういった家柄でないところから出てこれるようになった。それに、貴族のゲームといっても、必死に聴いている方々がどれぐらい、いたかわからないが、あくまでBGMに過ぎないという点もある(少し脱線をすれば、音楽家が黒系の服装で演奏するのはその名残。主賓の貴族より目立つような格好をしてはいけないのです)。

 と、まぁ、そんなわけで(かなりはしょりました)、ロマン派の音楽はとてもとっつきやすい(これが言いたいだけなんです)。もちろん、とっつきにくい人もいるわけだけど。ロマン派の音楽を聴いて、ちょっと、他も聴いてみたいなぁとなった時に、古典派の音楽を聴いてみるといいと思う。まったく違うものが耳に飛び込んでくるけども、よくよく聴いてみると共通点などが見えてくる。そうなってくれば、いらっしゃ~いとなるわけです。

 で、いままで聴いたことのない方に提案するお勧めの曲は、シチュエーションによって変わるけども、
 しっとりしたいなら、先ほども挙げたブラームス交響曲第3番3楽章。
 テンションが高くなるのは、ワーグナー。だいたいテンション高くなるように出来てます。
 ちょっと壮大なる宇宙を見てみたいならブルックナー交響曲第4番。
 あとは、なんだろか。どんなシチュエーションがあるかしらん。
 もし、こんな場合は?というのがありましたら、なんなりとお申し付けください。
 メールなりここでお答えいたします。もちろん、出来る範囲で。

 本当なら一番、最初にもってくるような文章だけども、本当に、このタイトルに引かれてきた方がいたら、びっくりしちゃうので、最後にもって来ました。
 一週間ぶりの更新。この間、三泊四日の旅行に行ってきた。もちろん、国内。愛知の豊川(ここには大きなお稲荷さんがあって、歴史的に有名な人々の信仰を受けていたらしい)、岐阜の高山、下呂と回り、彦根に行ってきた。愛知に住む友人の部屋に泊まり、夜は連日の酒盛りだったので、午前中はちと頭が痛いなぁとかあったりもしたけども、それなりに楽しめた旅行でした。旅行の最中でも、このブログで何を書こうかなと、頭の片隅で思っていたりして、こんな企画でやってみようなど浮んでは消えいった。半分以上、夜の酒盛りで頭の中から立ち去ったけども、まだ残っているのを精査して、活かしていければなぁと思っている。

 で、早速、考えていたことを実行に移そうと思う。テーマはもちろん、クラシック音楽。今は、聴き始めて、もう何年にもなるけど、最初のころ、何を思っていながら聴いていたのだろうと、ちょっと思い出そうとしてみた。と、いうのも、やっぱりクラシックブームのきざしが見えているのだから、ここはいろんな人に楽しさを知ってもらって、少しは層を広げてみたいと思うからだ。と、書くとなんでも知っているかのように思えるだろうけど、そんなことはなく、これまで聴いてきたことを自分の中で、整理をつける意味でもあるというのを、追記しておく。

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2006年11月22日 (水)

古典の響きならびに思うこと

 時折、ハイドンやモーツァルトは、どんな音だったのだろうというのが、話題にのぼっているのを耳にする。そんなとき、彼らがどんな音を考えていたのだろう、って話題にしたほうが、もっと話が膨らむのではないかなぁと思う。彼らだって、満足の行く編成のオケを持ったというわけでもなさそうだし(特にハイドンは)、となるとやはり彼らの考えた理想の音楽を追い求めたほうが面白いのではないかい?と思うのである。しかし、まぁ、それを実現するのは難しいでしょう。いかんせん、青森のイタコさんにでも聞かない限り、どんなことを考えていたのかわからないのだから。でも、そこにロマンがあるという人もいるかもしれない。ロマンって、なんだろうとかは、恥ずかしくて考えるのをやめてしまうけど。

 自分の持っている古楽器の演奏に対してのうさん臭さはどうもそこにあるみたいだ。もちろん、論点がずれているのは分かっているつもり。ハイドン、モーツァルトが求めた音楽と実際に当時なされた演奏が同じかどうかという問題と、古楽器奏者たちのアプローチは全く別物。なんで、そうなったのかといえば、やはり、ロマン派の存在が大きいのだろう。ようは、今いる自分たちの世界と古典の世界には大きな溝が出来ている。そこをいろんな人たぢが埋めようと努力したけども、それが埋まったかどうかは、誰もわからない。なぜなら、当時の音楽を誰も聞いたことがないからだ。伝統は、徐々にずれていってしまう。それは、クラシック音楽に関わらず、日本の芸能、民俗にしてもそうではないだろうか。というよりも、生活のスタイルが全く変わっている。博物館に行ったところで、一部分しかうかがい知ることは出来ないのだ。だからこそ、古典を演奏する指揮者は、学者が多いのだろう。アーノンクールにしても、コープマンにしても。つまり、古楽器の演奏会は、学者の研究発表ともいえる。

 などと、考えるとアマ・プロ問わず演奏者は、学者=指揮者の意図をどれだけ汲めるかということになる。自分なぞは、アマチュアのホルン吹き(といえないくらいのレベル)は、指揮者の意図にさえ、満足に応えていない気がするけど、それでも、演奏をしたあと、作曲家に対しての理解は変わっている。作曲家が考えていることというのを自分も研究していかなければ、ならないなぁと思う。昨日、一昨日とオケの批評を載せてみたけども、もっと具体的に書かなくてはいけないなという反省に陥っている。しばらく(2,3日だけど)休むつもりだけども、その間に少しでも進歩していきたいと、宣言して、今日は終わり。

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2006年11月15日 (水)

音楽とグルメ本の怪しい関係

 音楽とグルメは似ているとふと思った。答えがなく、結局、発言者の言うことを
信用できるか、出来ないかで終わってしまう。例えどんなに音楽についての知識が
あろうと、文章が下手であれば、何も伝わらないのと同じだ。音楽は、耳を中心と
する芸術にもかかわらず。一体、読み手は何を期待しているのだろうか。

 CDの批評というか新譜情報を書いたことがある。残念ながらクラシックではなく、
J-POPやR&Bといった洋楽が主だった。ここで曲の展開がとか言ったところで、
読み手はそんなもの期待していないのは知っている。この場合、知りたいのは、
あくまで情報だけでしかない。どんな曲が入っていて、今度はどんなライブをやるのか。
知らないバンドだったら、どんな経歴を持っているのか。誰と知り合いかといった
ものまで。曲について、どれぐらいのことを知りたがっているのかがつかめず、
とても書くのに苦労した。これがクラシックだったらどうだろう。
 まず、読み手は一般的な曲は知っていることが前提になっている。例えば、
ベートーベンの交響曲3、5、6、7、9番は最低でもすっと頭に流れてくる。
ブラームスの交響曲1、2、3、4番のそれぞれ1楽章はどんなかといえば、
こんなのってすぐ言える。モーツァルトやベートーベンはハイドンからの
影響をじかに受けているなど。はたから見たらただの雑学でしかなさそうなもの
まで知っているとした上で書く。だから、とっつきにくいといわれる。
で、それでも聴きたい人は宇野某や許○俊といった本を手に取り、
それしか読まない。まぁ、確かにそれ以外の本って手に入りにくいしね。

 何の話かもう、よく分からなくなってきているけど、結局、書き手が
これしかうまいものがないといってしまえば、それが最高のクラシックに
なってしまう。これは、フランス料理、中華料理、イタリア料理でどれが
一番うまいか、なんてのと全く変わらない。どれもうまいものはうまいし、
まずいものはまずい。それを判断するのは、食べる人に決まっている。
それを高圧的な感じで、他は全てまずいから、これしか食うなと
いわれてしまえば、ははぁっとありがたがって、思考停止状態。
そんな時代もあったねと言えるようになるのは、いつなのでしょう。
僕には、永遠にこないのではないかと思うのだけど。だから、
ガイドブックにだって当たり外れがあることをもっと伝えていかなくては
いけないと思うのです。評論家たちの言うことも、きっと何か考えがあること
だから、間違いではないと思う。でも、それを何も考えずに受け取っていたら、
せっかく、頭を使うゲームである音楽の存在意義がなくなってしまう。
ガイドブックを足がかりにして、自分の好きなものを求めていくのが、
本来あるべきなのではないでしょうか。情報操作されてても気づかないかも
しれない。これは、音楽に限らず。こんな世の中用心しないといけません。

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2006年11月14日 (火)

新しいクラシックを批評してみる

 音楽の批評ほど難しいものはないと最近、思うことが多い。というのも、その演奏形態によって評価が分かれてしまうからだ。例えば、古楽器とモダン楽器という点でがらりとかわってしまう。もちろん、作曲家の評価ではなく、演奏者の評価だが。ここ、20年近く、古楽器派が栄えてきたのは事実だ。アーノンクールにしろ、ブリュッヘンにしろ、評価が高くなって久しい。特にアーノンクールに関して、レコード芸術誌などを見ていると、もうフルトヴェングラーやトスカニーニといったレコード録音の大家に匹敵、もしくはそれを越える扱いになっているのには、驚くくらいだ。そんなにいいのだろうかと個人的に思うが、それはまた別で考えてみたい。だが、今は、彼らのように古楽器だけに固執するのではなく、モダン楽器と古楽器がミックスされたオケが出てきている。新しい形態が誕生してきているのだ。

 かつて、日本の推理小説は探偵小説と呼ばれていた。本格とも言われるらしいが。江戸川乱歩や横溝正史といった作家が主力だったころ。戦前、戦後のころ。その後、松本清張という社会派と呼ばれるジャンルが主流を成した。しかし、森村誠一が「人間の証明」を書いたころから、また新しいジャンルが誕生する。これらは現在まで続いて新本格となる。けっきょく、ジャンルとは、ひとつの組織の中での、ブームの言い換えに過ぎないというのが、私の持論だが、クラシック界にもそれが出てきたと見ていい。その代表格がドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンといったあたり。日本にも来てベートーベンの交響曲チクルスを行っているので、耳にした方も多いと思う。

 フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターと言った大編成のオケから、アーノンクール、ブリュッヘンといった古楽器の編成、そして小編成の室内オケへと流れている。これらは、いっしょくたには出来ない。彼らの背景が違いすぎる。求めているものももちろん、違う。そのあたりを考えて、批評をしていかなければ、批評の意味をなさなくなる。

 もちろん、演奏がどうだったという批評は今でも生きているし、今後も生き続けるだろう。それは、作曲家信仰がなくなることが考えられないからであり、また音は、一回出したらもう消えてしまうのだから。だが、彼らがなぜ、そういった演奏をしたのかというのを考えなくてはいけない時期にきている。指揮者は音楽家であり、また学者である。批評家はそれを踏まえたうえで、彼らの判断に甲乙をつけなくてはいけない。いつまでも、感情にまかせたままで批評を続けていると、いつまでも、音楽を見つけられずに終わってしまう。そうでしょ。U野某さんや許○俊さん、ちゃんと考えているんですよね?

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2006年11月10日 (金)

カラヤンを考察!

 好きなとタイトルに挙げておきながら、苦手な指揮者を先に述べさせてもらうとカラヤンである。ヘルベルト・フォン・カラヤン。クラシック界の帝王とか呼ばれていたりする。マエストロと呼ばれることがないのがカラヤンらしいと思う。もちろん、マエストロとか書いてあるのを見たことはあるけども、カラヤンの場合は、帝王の方がしっくりくる。一体、何が苦手なのか自分でも良く分からない。今、思えば最初に買ったホルンのCDは、ソリストがデニス・ブレイン、オケがフィルハーモニア、指揮がカラヤンだった。そのときは、ソリストばっかりに耳が入ってしまい、オケがどうこう考えることもなかった。そんなカラヤンが指揮している交響曲を手に入れたのは、確か新世界とブラ1。もう晩年の録音で、例のレガートを極端に重視するようなものだったように記憶している。すぐに取り出せるから聴けばすむことだが、今は、疲れているからそれはしない。

 尊敬する音楽評論家に吉田秀和がいるが、彼はカラヤンのことをこういっている「彼の棒できくと、音楽がいつもらくらくと呼吸していてちっとも無理なところがない」(世界の指揮者:新潮文庫)。さすが先生、鋭いとこをついているなぁ、と感心な一文。実は、今、カラヤンがフィルハーモニアを指揮したチャイ5を聴いているのだけど、まさにその通りなのである。録音が1952年と今から、ざっと50年ちょい前。正直、カラヤンが目的ではなく、先ほども出たデニス・ブレインのソロを聞きたかったから。しかし、優雅さというか気品のようなものを感じたのは初めてである。それがカラヤンの影響なのかはわからない。自分がカラヤンの指揮したものをあまりにも聴いていなさすぎるからだ。

 吉田秀和の言う「らくらく呼吸していてちっとも無理なところがない」のは、こういったことを指すのではないだろうか。音楽とは、肩肘はらずにリラックスして聴くものなのだから。しかし、だからこそ、自分の気分に合わないとき、物足りなくなってしまう。例えば、激しいものを聴きたくなったとき、泣きたいとき、そういった感情の動きがあったときにカラヤンの指揮する音楽が当てはまるのかといったらそれは、残念な結果に終わってしまう。そんなわけで、自分はカラヤン指揮の音楽を聴くことがない。だって、そのときの気分でCDを選ぶからだ。ある意味、カラヤンは大人の味なのかもしれない。ビターなカラヤン。

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2006年11月 9日 (木)

音楽を書く

 音楽は聴くことが一番多い。次に演奏すること。最後に書くこと。この中で難しいのは何かと聞かれれば、やはり書くことになる。特に、知らない人が発表した、馴染みのない分野の音楽について。では、一番馴染んでいるクラシックについては書けるのかと言われれば、やっぱり難しいというしかない。やはり耳で、目でとらえたものを文章にするというのは、何か訓練、もしくは才能がないと一定のレベルを超えることは出来ない。感じたままを書いていけば、いつかは壁にぶつかる。そういったものがないと言う人がいるなら、それは、そこまで行っていないか、才能があるということになるだろう。例を挙げる。
 これはCD評である。カルロス・クライバー指揮、バイエルン国立管弦楽団。

 ライブ版に付き物といえば、曲間の観客の咳払い、くしゃみや曲終後の拍手。クライバーの指揮するライブ版では、この観客の行動が他のと違っている。楽章の間さえ、緊張感が漂い、終了後は、クライバーや演奏家たちと一緒に息をのんでいる。このCDでは、特に顕著だ。曲の終了後にまばらな拍手というのが、まず考えられない。想像できるのは、それだけの圧倒感がそこにはあったのだ。クライバーの持ち味といえば、極度なドライブ感が挙げられる。オケの規模はさほど変わらないはずなのに、室内オケを指揮しているように、自在なのだ。しかし、そのオケも必死で着いていかなくてはいけない。リハーサルとは違うテンポを用いているのではないだろうか。シャルル・ミュンシュは、やはり本番とリハーサルのテンポを変え、オケの集中力をわざと高めさせたらしいが、それと似ている。オケ団員は必死で付いていかなくては、自分が振り落とされ、気がつけば、自分の席に違う人間が座っていることにもなりかねない。このベートーベンの交響曲7番はそういった状況から生まれてきたと言っても良いだろう。

 と、これが、聴いた感覚から書いた文章。はてさて。皆さんはどう思われますか?これだけだと物足りなくなるはず。では、何が足りないのでしょうか?それが分かればプロになれる…かもしれません。

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2006年10月10日 (火)

プロオケとアマオケ

 先に断りを入れておく。以下にある文章はクラシック音楽に関してである。ジャズやロックなどに関しては言及していない。

 演奏のうまい下手というのは、いろいろな視点から考えることが出来る。プロオケの演奏全てがうまいかといったらそうではないし、アマオケの演奏全てがといっても然り。では、その判断の基準はどこに置かれるのだろうか。プロオケの場合、オケ自体のレベルという観点よりも、指揮者に求められるものの方が大きい。オケはアンサンブルなどの技術は当たり前の話で、(指揮者の指示に対する)反応の良さに聴き手は期待する。もちろん、これはプロオケだけの話ではないかもしれない。アマオケでも、こういった期待が出来るオケは数多くある。しかし、聴き手はしょせんアマチュアという考えが頭の片隅にでもあるというもの事実だろう。プロに対するほどの期待はかけていない。

 では、アマチュアがオケをやる、それに対して客が入る(時に満員御礼)というのは何があるのだろうか。アマオケに対しては何が求められているのだろうか。プロに負けることのない音楽だろうか。この場合、音楽という言葉を使うのは逃げかもしれない。そもそも音楽とはなんなのか。というような話になってもおかしくはないからだ。音楽とは、読んで字の如く、音を楽しむことである。そこから発生する喜怒哀楽は、オプションでしかない。聴き手の耳、頭というフィルターを通して初めて発生するからである。つまり、この曲は悲しい音楽といった言葉や、楽しい音楽というような使い方をするのは、音を楽しんでいるではなく、曲を空想して、もしくは音に意味をつけて楽しんでいることになる。

 話がだいぶ、ずれてしまっているがアマオケの演奏というのは、その空想を楽しめる演奏なのではないかと私は思う。というのも、普段、CDや映像などで音楽に親しむ人間にとって、演奏会で聴ける生音は、媒体とは全く違う代物であり、舞い上がってしまう。お腹に響くような音を聴いただけで感動してしまうのだ。私もその一人だ。いや、正確にいえば、だった。しかし、何回も通うとそんなことには慣れてしまい、違うものを求めるようになる。そして、そういった人たちがアマオケを聴きに行くのだろうか。
  
 さきの質問に関して言えば、答えはノーだ。アマオケに聴きに来る人は、クラシック音楽を専門的ではなく、純粋に楽しんでいる。音楽の作るドラマを見ていく。プロオケに行く人たちの会話を聴いてみればいい。音楽ではなく演奏の上手い下手を論じ、満足している。私はどちらも正しいと思う。しかし、楽器をかじり、何度もプロオケの演奏会に行った。そのとき、自分の求めていることを実現しているか、もしくはそれ以上のことをやってもらえているのか、そこだけに注目している。

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2005年10月24日 (月)

考えちゃった

 友人からメールが来た。今度、演奏会でやる曲のCDを買いたいのだが、何かお勧めはないかとのこと。ちなみにやる曲はショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」だという。
 たいして聴きこんでいる曲ではないから、バーンスタイン、ムラヴィンスキーあたりを勧めておく。で、ふと考えた。この二人の違いは何だろう。
 音楽に対する姿勢が全く違う。ようは、フルトヴェングラーとトスカニーニのように正反対なのだ。私にはどちらがいいか分からない。ただ、そのときの気分や思い入れ(思い込み)で、変えていく。例えばラーメンを食べるにしても、こってりがいいからトンコツを、とかさっぱり系だよ、と塩を選ぶようなものだ。
 音楽というものを、再現芸術ととるか、自己表現ととるかで同じ指揮者でも全く違った振り方をするだろう。どっちがいいか悪いかではなく、どちらを今(ここが大切)自分が求めているのか。を知る必要があるのではないだろうか。
 しかし、芸術に自己表現を求めるのは、ただのオナニープレイだ、という人がいるのは確かだと思う。実は自分もそう思う。やはり、指揮者は楽譜から得た、または見つけたものをこちらに伝える義務があるのではないだろうか。
 そして我々、聴衆それを感じ取らなくてはいけないのではないだろうか。芸術とは、提供する側、される側の二つがあって成り立つ。クラシックだけでなく、今、巷で流行っているような歌でもいい。何かを訴えてくるもの。それを求めず、ただ受身になっていることは、お互いに進歩をやめることと同じだ。だからこそ、様々なものを目にし、耳にし、口にする。全ては自分を高めるために。

 貪欲に摂取していかなくては、このご時世、取り残されてしまうような気がしてならない。
そして、言うこといわなければ食われるだけのような気がする。いかがでしょうか。

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